日本の西洋料理の歴史

16. 列車食堂の登場


●列車の中の高級レストラン

 日本の洋食の発展を担った一角として、列車食堂も見逃せません。
 当時の列車での移動はかなりの長旅で、1896年(明治二十九年)当時、東京(新橋)〜神戸間に約十七時間もかかったので、乗車中の娯楽として食堂のニーズが高くありました。そこで、1899年(明治三十二年)5月25日、神戸〜広島間を運航していた山陽鉄道の急行車に、日本で最初の食堂車が連結され、そこではステーキやビーフシチュー、カレーといった洋食が提供されました。
 はじめは山陽鉄道の直営でしたが、1901年(明治三十四年)には、駅構内食堂を運営している「みかど」に食堂の運営が委託されました。そして同年、官設鉄道東海道線に食堂車が連結されると、食堂の運営は精養軒が請け負い、そうして次々と全国各地の鉄道に食堂車が連結されていくと、東洋軒や共進亭といった各地の有名レストランが食堂の運営を請け負いました。

 メニューが洋食だったのは、列車食堂のターゲットは富裕層だったことと、鉄道利用者に外国人が多かったからです。そのため、サービススタッフは外国船などから招き、服装はきちんと詰襟の黒ズボンのユニフォームで、内装やテーブルなども高級料理店のようにしつらえられました。
 調理については、列車内の厨房設備では十分でなかったため、調理済みの食品や半製品を用いられることが多かったようです。ただ、それでも当時は現代のような冷凍食品やレトルト食品がない時代だったので、調理には技術が求められ、メニューやレシピを考えることも出来る、技術と専門知識のあるコックが不可欠でした。そのため、列車食堂は、洋食のコックが腕をふるい、修行する場としても大きな意義を持ちました。
 また、精養軒が運営していた食堂では、精養軒初代料理長のチャリヘスが経営するパン屋「チャリ舎」が卸す「かつを節パン」(フランスパンのことか?)が好評だったという記録もあるようです。

●「日食」の誕生

 1937年(昭和十二年)からはじまった日中戦争が激化していくと、政府による食料統制がなされ、レストランも営業が制限されるようになり、列車食堂の運営も難航するようになっていきました。
 そこで政府は、列車食堂の運営をしている事業者を統合して運営を合理化することを決め、事業者側とも合意し、そこで1938年(昭和十三年)に誕生したのが「日本食堂株式会社」です。列車食堂を受託していた精養軒やみかど、共進亭など六社の列車内食堂と関連業務を統合したこの会社は、当時の飲食企業では日本最大の規模の会社となり、第二次世界大戦後もしばらくは列車内食堂を独占的に営業し、飲食業界で日本一の売り上げを誇る企業となりました

 

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