日本の西洋料理の歴史

15. カフェ文化のはじまり


●新しい喫茶文化

 開国後の日本に新しく生まれた西洋式の食文化の中に、「ミルクホール」や「カフェ」といった喫茶文化があります。
 それまでの日本に喫茶文化がなかったわけではありませんが、明治〜大正にかけて流行した、汁粉屋やミルクホールといった飲食店では、牛乳やコーヒーといった、それまでの日本になかった新しい飲み物が提供されました。
 汁粉屋は、文字の通りお汁粉やお茶を出す、休憩所的なお店でしたが、中には神田須田町の「三好野」のように、洋食を出すような店もありました。
 ミルクホールは、明治政府が国民の栄養改善のために牛乳の普及を推進したことで生まれた店で、牛乳やコーヒー、ドーナツやカステラといった軽食を出し、店内には雑誌や官報などが置かれ、牛乳を片手に、学生や会社員が官報を読むといった、現在の喫茶店のような使われ方で全国に流行しました。神田や本郷、三田といった学生街に多く生まれ、1889年(明治二十二年)に開業した茅場町「桃乳舎」、1905年(明治三十八年)早稲田に開業した「高田牧舎」などは、後に西洋料理店を併設し、現在でもレストランとして営業しています。
 ただ、学生が利用するといっても、当時はまだ小学校ですら誰もが行って当たり前でなかった時代なので、この頃の「学生」とは、「若者」と同義語的な意味を持つ現代的な感覚での学生ではなく、実質的に富裕層の子息のことです。

 コーヒーの専門店は、明治の初期の頃から存在していたという記録もあるようですが、本格的な西洋スタイルのコーヒー店の先駆けは、1888年(明治二十一年)に上野で開業した、「可否茶館」と言われています。開業者の鄭永慶は、長崎で代々通訳をしている家系に生まれ、外務省権大書記官の父を持ち、エール大学にも留学していた秀才でした。海外の情報に通じていた鄭は、日本にも欧米のサロンのような文化を広めたいと考え、勤めていた大蔵省を辞し、二階建ての洋館を建設して可否茶館を開きました。
 
店内には、国内外の新聞からトランプやビリヤードなどの遊戯を用意し、化粧室、シャワー室まで設けた、さながらイギリスのコーヒーハウスのような本格的なコーヒー店でした。
 しかし、当時の日本人には理解されず、可否茶館はわずか四年で閉店してしまいますが、この頃から東京に少しずつコーヒー文化が広がり始め、風月堂やキムラ屋といった洋菓子店・パン屋にも喫茶室が設けられます。

 そして1910年(明治四十三年)、日本橋小網町に、「メイゾン鴻の巣」が開業します。
 この店は、フランス料理や洋酒、コーヒーを売る、西欧のサロン的な雰囲気を携えた店で、多くのハイカラな文化人が集まる店となりました。特に、当時「スバル」「白樺」「新思潮」に属する新進気鋭の文人達の寄合場所となり、久保田万太郎、高村光太郎、北原白秋、谷崎潤一郎といった面々が常連客として始終出入りし、芥川龍之介が『羅生門』を発表した時は、この店で出版記念会が行われました。可否茶館の開業から約二十年、日本にもようやくカフェの文化の火が灯った時でした

●カフェの登場と銀座の繁栄

 1911年(明治四十四年)は、歴史的なカフェが相次いで誕生するラッシュ年になり、その中心地は東京・銀座でした。
 もともと東京一番の繁華街と言えば、江戸時代に蔵前のあった浅草や、商業の中心である日本橋でしたが、1872年(明治五年)、大火によって焼けてしまった銀座を復興するために「銀座煉瓦街計画」が生まれ、洋風の建築が立ち並び、西洋文化の窓口として発展していくと、銀座の人気が高まっていきました。1902年(明治三十五年)には、銀座の資生堂薬局(現・株式会社資生堂)が、アメリカのドラッグストアに併設されていた喫茶コーナーを参考に、日本で最初のソーダ・ファウンテンとなる「資生堂ソーダファウンテン」を開設し、清涼飲料やアイスクリームを販売したことなどもあって、流行をリードする街として注目を集めるようになっていきました。
 そして1911年の四月、銀座日吉町(現在の銀座八丁目)に、「カフェ・プランタン」が開業します。この店は、日本で「カフェ」を名乗った最初の店と言われ、経営者は洋画家の松山省三でした。銀座にもパリのカフェのような、芸術家が集まるサロンのような店を作りたいと考え、松山省三と同じく洋画家の平岡権八郎が出資して生まれたのがカフェ・プランタンでした。
 建物や内装には、歌舞伎座や大阪中央公会堂を設計した岡田信一郎をはじめ、洋画家の岸田劉生、青山熊治などが協力してパリのカフェを思わせるような店づくりをし、開業後はインテリ・文化人のサロンとなり、洋行帰りの知識階級や、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、歌舞伎役者の市川左團次などが常連として名を連ねました。
 そして十二月には、同じく銀座南鍋町(現在の銀座七丁目)に、「カフェー・パウリスタ」が開業します。創業者は、元自由民権運動の闘士で、多くの日本人のブラジル移民を実現し、ブラジルのサンパウロ市から名誉市民賞を贈られている水野龍。ブラジル政府から、コーヒーの宣伝のために無償でコーヒー豆を供与されることになり、「鬼の如く強く、地獄の如く熱く、恋の如く甘く」をキャッチフレーズに、安価でコーヒーを提供して人気を博しました。この店にも、菊池寛や芥川龍之介、吉井勇、与謝野晶子といった文士達が出入りし、芸術家達のサロンとして愛されました。
 さらに八月には、「カフェーライオン」(現在の「銀座ライオン」)が銀座尾張町(現在の銀座四丁目)に開業しています。開業時は築地精養軒の経営で、その強みを活かし、料理が豊富で美味しいのが特徴でした。また、当時は珍しかった若い女給によるサービスも人気を呼び、カフェ・プランタンやカフェ・パウリスタが、インテリ向けのサロンとしての色が濃くて敷居が高かったのに対し、カフェ・ライオンは、一般人でも気軽に入れるカフェとして人気を得ました。
 このように、日本でも西洋のようなカフェ文化が開花していくとともに、銀座が新しい文化や情報の発信地としての地位を確立し、「銀ブラ」という言葉も生まれました

 

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