日本の西洋料理の歴史

14. 明治時代の厨房事情


●明治時代の西洋料理のレベル

 鹿鳴館のメニューや、帝国ホテル初代総料理長のレシピ書、精養軒の全盛期を築いた鈴本敏雄の著した料理書などによると、明治期の日本人コックは、相当レベルの高い西洋料理の知識があったことがわかっています。
 もちろん、当時の流通事情や食材事情から、缶詰の食材や代用品を用いるなど、限られた範囲ではありましたが、当時のコックは外国人から外国人のための料理を学んだので、本格的であったのは当然のことと言えるでしょう。

 内容的にはアントナン・カレームやユルバン・デュボワといった時代の、大皿に盛った宴会料理やコース料理で、明治期の日本にはエスコフィエの料理はほとんど入っていなかったようです。
 フランスでエスコフィエがその名声を高めたのは1870年代頃からですが、世界的にもその技術が広く知られるようになったのは、1903年(明治三十六年)に有名な"Le Guide Culinaire"を発行してからなので、日本にその技術が本格的にもたらされるのはもうしばらく後のことになります

●明治時代の厨房

 当時の厨房は、現在とは比較にならないくらい原始的な設備で調理を行っていたので、その調理技術は極めて特殊で、熟練が求められたため、職人は非常に重宝され、腕の良いコックは破格の高給の処遇を受けていました。1887年(明治二十年)の『時事新報』には、西洋料理のコックについて「甲が十五円を与うれば、乙は二十円を与えんと言い出し、雇い主の間に競争を生じたり」という記事が載るほど、その獲得は競争になっていたようで、富士屋ホテルの記録によると、明治三十年頃の給与台帳では、支配人の月給が二十五円であったのに対し、料理長の月給は五十四円五十銭もあったそうです。

 まず、火の扱い一つとっても、当時は現在のようにコックをひねれば簡単に火力調整出来るようなガスコンロや、設定するだけで温度が自動調整されるオーブンなどは存在しません。ガスが導入されること自体が大正期以降で、その普及となると昭和以降のことであり、当時は「石炭ストーブ」と呼ばれる、石炭を炊いた大きな焜炉の上でフライパンや鍋を扱っていました。強火の時は中央に置き、中火の時は端のほう、弱火で煮る場合は焜炉のわきに置く、といったように、火力や温度調整は熱量と経験則から判断するもので、簡単にマニュアル化出来るようなものではありませんでした。そのため、今では家庭でも簡単に作ることの出来るクリームコロッケやプリンひとつ作るのにも、当時は相当な経験と熟練が必要な時代でした。

 また、肉料理なら肉料理、煮込み料理なら煮込み料理専門の職人がそれぞれ分かれていることは珍しくなく、新設されたホテルやレストランにコックを集める際にも、それぞれのセクションの親分が子分を連れてグループを形成し、自分のセクションの仕事しかしないことも多くありました。
 もちろんそれは、単なるしきたり的な理由だけではなく、料理一つひとつの専門性が高かったからでもあり、かつての厨房には、ローストビーフしか作らず、ローストビーフがメニューにない時は出勤もせずブラブラしているだけなのに一人前の給料をもらえる、というような職人が沢山いたと言われています

●西洋食材事情

 明治期の食材事情は、先に述べたように居留地を中心に西洋食材が広まっていきましたが、フランス料理を楽しむにもソース作りにも欠かせないワインに関しては、鹿鳴館時代にすでにシャトー・ムートン・ロートシルトやロマネ・コンティといった最高級のワインの名前がメニューにあり、1885年(明治十八年)から食材の輸入販売を行っている竃セ治屋の記録によると、乳製品や野菜類はもちろん、シャトー・ラフィットやシャトー・マルゴー、シャトー・デュケムといったワインも明治期には輸入され、缶詰のフォアグラも輸入されるなど、当時の輸送・保存技術で可能な限りの西洋食材が日本に持ち込まれていました。
 しかし、そうした西洋食材の入手は決して容易ではなく、非常に高価であったため、本物の食材をふんだんに使用出来るのは限られた特別な店だけで、高級店でもコスト的に見合わないため、代用品を使われることが多くありました。帝国ホテルでも、缶詰のフォアグラですら国賓級の顧客の時にしか出せなかったと言われ、第二次世界大戦戦後になっても、バブル期を迎えるまでは、ホテルオークラのような一流ホテルでも、料理用に本物のフランス産ワインなどはおいそれとは使えなかったと言われています。
 しかも、本物の外国製品ならまだしも、明治の頃は外国製にみせかけたインチキ商品も氾濫し、使用済の缶詰やガラス瓶に全く別の物を入れて売られていたり、わざわざ外国製に見せかける偽造ラベルを製造している業者までいたようで、イザベラ・バードは"Unbeaten Tracks in Japan"の中で、そのひどい様相について不満を書いています。

 畜肉については、当時はまだブロイラーがなかったので、鶏肉が最も高価で、次いで牛肉が高く、比較的安価だったのが豚肉でした。西洋ではあまり一般的でない豚肉のカツレツが日本で定着したのは、安価だったからかも知れません。

 野菜についても、現代では安価な大衆食材であるジャガイモですら、当時は決して簡単に手に入るものではなく、明治三十年頃から、北海道で本格的に生産されるようになって少しずつ出回るようになったものです。国内に本格的に広まるのは大正時代に米不足になって、国策として芋類の生産が奨励されるようになってからであり、大衆食になったのは昭和以降のことです。

 日本で西洋食材が手軽に使用出来るようになるのは、アメリカの指導によって西洋食材の栽培が盛んになり、流通技術・保存設備も飛躍的に進化する第二次世界大戦後を待たなければなりません。なお、ブロイラーが日本に広まるのも、第二次世界大戦後、大阪の「くいだおれ」創業者の山田六郎がアメリカから持ち込んで以降のことです

 

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