日本の西洋料理の歴史

18.国際化社会と大正期の洋食業界


●大正期の洋食店

 大大正時代には、歴史的な名店や、今日まで営業を続けている洋食店がいくつも生まれています。
 関東では、浅草に、フランスで修行を積んだ竹下周吉によって、1913年(大正二年)に西洋料理店「レストラン吾妻」が開業し、同じ年に、アイスクリーム製造から転じた「レストラン大坂屋」も開業しています。レストラン吾妻の二代目・竹下正次は「天皇の料理番」こと秋山徳蔵の下でも学び、今日では日本屈指の洋食店として、グルメなら知らない者はいないと言われるほどの名店です。大坂屋は、食通としても有名だった永井荷風が愛した店で、永井荷風が文化勲章を受章した際にはこの店で祝賀会が行われたそうで、近年まで営業を続けていました。また、築地精養軒の全盛期を築いた西尾益吉が、精養軒を辞した後、1918年(大正七年)に本郷でフランス料理店「燕楽軒」を開業し、芥川龍之介や菊池寛、久米正雄といった文壇の名士に愛されて名声を誇ります。
 そして1923年(大正十二年)、横浜元町の洋菓子店「不二家」が銀座に出店し、そこで洋食レストランの営業を開始します。不二家は、藤井林右衛門が1910年(明治四十三年)に横浜の元町で開業した洋菓子店で、1914年(大正三年)にはソーダ・ファウンテンを新たに併設し、1922年(大正十一年)には横浜の伊勢佐木町にも出店していますが、洋食を提供したのは銀座の店が最初でした。さらに、洋菓子店では日本有数の老舗である「コロンバン」(現在の銀座コロンバン)が、1924年(大正十三年)、東京の大森に開業し、この店は、東洋軒出身で宮内省に勤めていた門倉国輝がフランス修行を経て開店し、本場のフランス菓子を作る店として評判になりました。
 また、1921年(大正十年)から東京でハム・ソーセージの製造・販売を行っていたドイツ人、アウグスト・ローマイヤが、銀座にドイツレストラン「ローマイヤ」を開設し(現・ローマイヤ株式会社)、中央亭創業者・渡辺鎌吉の息子で、ヨーロッパで八年の修行経験のある渡辺彦太郎が、1925年(大正十四年)渋谷に「二葉亭」を開いて高い名声を博し、両店とも谷崎潤一郎の小説『細雪』に有名店として登場しています。
 他にも、1925年(大正十四年)、谷善之丞が、銀座の歌舞伎座の前にかき氷屋を開業し、これが後にレストラン「三笠会館」となります。
 横浜では、1922年(大正十一年)、日本で初めてバームクーヘンやマロングラッセを作ったカール・ユーハイムが、山下町に洋菓子と軽食の店「E.ユーハイム」を開業(現・株式会社ユーハイム)、1923年(大正十二年)にハヤシライスで有名な「梅香亭」、1925年(大正十四年)には「勝烈庵」が開業しています。

 関西では、1922年(大正十一年)に、大阪の洋食店の草分けとなる「パンヤの食堂」(現・「北極星」)を北橋茂男が開業、1926年(大正十五年)には「明治軒」を井本安蔵が船場で開業します。また、このパン屋の食堂の初代・北橋茂男は、東京・浅草の牛鍋屋「ちんや」での修行を経て大衆食堂のコックに転じましたが、ケチャップライスを卵で巻いたスタイルのオムライスを日本で最初に考案したといわれています。また、神戸では、1923年(大正十二年)に、外国船のコックだった伊藤寛が洋食屋「伊藤グリル」を開業し、京都では、1915年(大正四年)に、別所常一が「開陽亭」を八坂神社前(祇園右段下)に開業、1925年(大正十四年)には、アメリカに十八年も住みレストラン経営を学んだ西村寅太郎が、京極通りに「スター食堂」を開業しています。
 北海道では、1919年(大正八年)に、横浜のグランドホテルで修業した山下十治郎が「第一洋食店」を開業しています

●大正期のホテル・観光立国として

 大正期の日本は、貿易、戦争と、国際化社会へと進み、外国人の訪日者数が増加していたので、東京では外国人向けのホテルが不足していました。
 そこで新しく生まれたのが、「東京ステーションホテル」と「東京會舘」です。

 東京ステーションホテルは、東京駅が完成した翌年の1915年(大正四年)に開業しました。明治期、東海道線を結ぶ新橋駅と東北本線を結ぶ上野駅が連絡していなかったので、そこを結ぶ中央ステーションを建設するという案が以前からあり、それが日露戦争などによって遅れていたのが、ようやく大正になって実現したのが東京駅で、その東京駅の利便性を高めるために、駅の南翼二・三階に作られたのが東京ステーションホテルでした。
 設立にあたっては、帝国ホテルを設立した大倉喜八郎、東京商業会議所会頭の中野武営、鉄道院営業課長の木下淑夫などが中心となり、運営は築地精養軒に委託して開業し、総支配人には精養軒のコック出身で社長でもあった五百木竹四郎(神戸トアホテル料理長・五百木熊吉の弟でもある)が就き、五十六の客室、レストラン、宴会場を備え、東京では帝国ホテル・築地精養軒に次ぐ大ホテルとなりました。(なお、1933年に精養軒への委託を解除して鉄道省の直営となり、名前も「東京鉄道ホテル」と改称します)
 なお、このホテルの設立に大きく関わった木下淑夫は、後に日本への外国人観光客誘因のために結成されたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社)の生みの親でもあります。

 東京會館は、東京商業会議所会頭の藤山雷太、帝国劇場支配人の山本久三郎、東洋軒創業者の伊藤耕之進らによって、1922年(大正十一年)に開業しました。
 日本が観光立国となって外貨を獲得していくために、国際的な総合社交場の必要性を感じていた藤山と、ロンドンやシカゴの劇場のように、帝劇もホテルと直結させたいと思っていた山本と、帝国ホテルを超えるホテルを作りたかった伊藤の思惑が一致して誕生したもので、レストランの総料理長には横浜居留地のオリエンタルパレスホテルからA.プロジャン(A.Progin)を招き、日本人料理長には、秋山徳蔵の一番弟子と言われる、東洋軒出身の今川金松が就任しました。

 こうした、日本に外国人客を誘致して外貨を獲得しようという動きは全国で高まっていて、明治の終わり頃から、全国の主要な観光地にホテルの建設が相次ぎました。
 中でも、1913年(大正二年)に、「日本三景」の一つである宮城県の松島に開業した「松島パークホテル」は、広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)を設計したヤン・レツルが設計した見事な和洋折衷の建物で、1969年(昭和四十四年)に火災によって焼失するまで、東北一のリゾートホテルとして名声を誇りました。
 なお、このホテルは、開業時は精養軒が経営を請け負っていましたが、1931年(昭和六年)に、精養軒を辞した五百木竹四郎が精養軒から経営権を譲り受けています
。 

●百貨店食堂

 日本の洋食文化の発達を語る上で、百貨店食堂の存在も欠かせません。今日でも、百貨店を日常的に利用出来るのは富裕層が中心ですが、戦前においては、今以上に庶民には手の届かない存在であり、そうした富裕層を顧客とする百貨店に併設された食堂は当然ながら高級食堂でした。それだけに、コックがその腕を発揮する大きな舞台の一つでした。
 百貨店の多くは江戸時代の呉服屋が転身したものですが、そこに食堂を併設したのは白木屋(現在の東急百貨店)が最初と言われ、それに次いで三越百貨店も食堂を開設し、当初はどちらの食堂も和食でしたが、1922年(大正十一年)、三越が本店東館を増築するにあたって開設した200名収容の食堂が洋食専門の大食堂で、これが日本で最初の百貨店レストランと言われています。
 三越は、江戸時代に呉服屋・越後屋を経営していた三井家(後の三井財閥)が、三井家の「三」と越後屋の「越」を合わせて名付けたものですが、1904年(明治三十七年)に株式会社三越呉服店となって「デパートメントストア宣言」を行い、日本で最初の百貨店となりました。
 初代専務の日々翁助によって、三越は様々な経営改革が行われ、1914年(大正三年)に日本橋本店はルネッサンス様式の新館で生まれ変わり、そこには日本初のエスカレータが導入されています。その三越が、百貨店では最初となる洋食堂を1922年に(大正十一年)開設し、当時その運営は東洋軒に委託していたようで、『百味往来』によると、1923年(大正十二年)の三越東洋軒には、土田治三郎を料理長として十九人のコックが働いていたようです。
 昭和に入り、三越は食品部門を専門にした「二幸商会」を子会社として設立し(「二幸」は、「海の幸」「山の幸」を意味する)、食堂も直営となりました。現在はそれが株式会社三越伊勢丹フードサービスとなり、一部のレストラン部門は株式会社レストラン二幸(現在のセントレスタ株式会社)となって継承されています。

 三越を皮切りに全国の百貨店で洋食堂が開設し、銀座の高島屋には東京會舘料理長だった今川金松、上野の松坂屋食堂「サカエヤ」には交詢社倶楽部や銀行倶楽部の料理長を歴任した中島英之助、大阪三越には神戸太陽軒などの料理長を歴任した山下秀雄、心斎橋大丸には東京第一東洋軒の料理長だった夏目峯吉、難波の高島屋には万平ホテル料理長だった大久保球次郎、京都大丸には稲岡昇太郎が料理長として活躍し、彼らはいずれも東洋軒の出身で、百貨店の富裕な客層に相応しい腕を持った錚々たる面々でした。
 また、1929年(昭和四年)、大阪梅田駅に、鉄道と直結した日本初のターミナルデパートと言われる「阪急百貨店」が開業すると、料理部門の顧問には大連や旅順のヤマトホテル料理長を歴任した杉本甚之助が就任し、1933年(昭和八年)に伊勢丹が新宿に本店を開店すると、レストランには風月堂出身の坂井福太郎が料理長に就任しました。

 日本のレストラン史において、百貨店食堂がこれまでのレストランと違ったことは、百貨店利用者のための食堂であったことから、必然的に主婦や家族連れといった客層が顧客のメインになり、現在でいう「ファミリーレストラン」の原型となったことです。
 それを象徴するのが、三越食堂(現在の「ランドマーク」)主任の安藤太郎が、1930年(昭和5年)に開発した「御子様洋食」でしょう。これが現在の「お子様ランチ」の元祖とされ、人気の洋食を一皿にまとめたこの商品は大ヒットし、三越が御子様洋食を販売したわずか三か月後に上野松坂屋が「御子様ランチ」を提供するなど、他の百貨店も三越に追随しています。
 このように、百貨店の食堂は、ファミリーで外食するという新しい食のスタイルを切り拓いたと同時に、現在の商業施設でも一般的に見られる最上階レストラン街の原点となりました

 

←Back         Next→
      


 →TOPへ