日本の西洋料理の歴史 19.関東大震災と食文化の転機
●関東大震災
1923年(大正十二年)、こうした西洋料理の発展の流れが大きく変わる事件が発生します。
それは、関東大震災で、この震災により、関東は壊滅的な打撃を受けました。震災が発生したのがちょうどお昼時だったこともあって、各所で火災が発生し、完全に鎮火するまでに二日もかかったといわれます。
西洋料理店の最古参である築地精養軒はこの震災で壊滅し、本店は支店の上野精養軒に移され、築地の店は以後再建されることはありませんでした。また、精養軒と並ぶ老舗の富士見軒はこの震災で廃業し、十店舗以上展開して栄華を誇っていた中央亭も本店を残して全て倒壊し、東洋軒も経営に致命的なダメージを受け、直営の支店は全て解散することになりました。関東大震災の震源地は小田原であったため、最も罹災が大きかったのは神奈川県でした。特に人口の集中した横浜の被害は甚大で、外国人居留地は壊滅したといっても過言ではなく、外国人ホテルは、グランドホテルをはじめ、ほとんどがこの震災によって倒壊・焼失し、商館や家屋も軒並み壊滅し、荒田勇作や池山金一の師であり、居留地で「パリス・ホテル」を経営していたラデシラス・コットー(L.Cotte)はじめ、日本に西洋料理を伝えた多くの外国人が帰らぬ人となりました。
横浜から撤退して帰国する外国人も多く、横浜居留地は一時廃墟のようになり、これにより、西洋料理のメッカといわれた横浜から洋食の歴史が断絶します。山下町に店を開いていたカール・ユーハイムも、震災で店と全財産を失い、神戸に移住しています。西洋料理のメッカでありながら、東京のように明治期から続く老舗洋食店やホテルが横浜に少ないのは震災の影響が大きいでしょう。●不景気と洋食の大衆化
この震災によって、特に首都圏では社会・経済のあらゆる活動が混乱して緊急事態となり、それが人々のライフスタイルに大きな変化をもたらしました。
震災の影響は関東だけにとどまらず、日本全体の経済が悪化して深刻な恐慌が発生し、政府は「帝都復興審議会」を結成して復興を図りました。道路や区画整理といったインフラは比較的早くに整備されましたが、経済状況はなかなか好転せず、その後も銀行恐慌や、1929年(昭和四年)に発生した世界恐慌の影響を受けて昭和恐慌が発生し、日本経済は長い低迷期に入ります。こうした経済的背景から、人々にとって日々の糧を得ることはより深刻なこととなり、それが日本人の食生活に大きな変化をもたらすことになります。
もともと、大正前期頃から、食糧難の対策として公営の大衆食堂が作られるなど、人々の生活の中に外食が少しずつ日常化しはじめてはいましたが、震災前は、そうした食堂というのは主に貧しい層が利用する店であったのが、この震災を転機に、あらゆる人々にとって「食事の場」の需要が高まり、大衆志向に方針転換する飲食店が増え、サラリーマンや商店の従業員も日常的に大衆食堂を利用するようになっていきます。そうした変化の中で生まれた大衆食堂の代表的存在が、1924年(大正十三年)、東京の須田町に開業した「須田町食堂」(現在の翫レ楽)です。
創業者は、後に「食堂王」と呼ばれるようになる加藤清二郎です。加藤は、海産物問屋や株屋に奉公したり、サハリンで鉄道建設の軍役をしたりと、もともと飲食関係の仕事をしていた人物ではありませんでしたが、東京で牛乳やお菓子の配達をしながら新しい仕事を考えていたところ、当時の東京には手頃な価格で外食出来る店が少ないことに目を付けます。そこで、飲食の経営を覚えようと、浅草の洋食屋に勤めることになったのですが、そこに大震災が発生します。
この震災によって東京での食堂のニーズはより高まったので、加藤は、当時は庶民にとって高嶺の花だった洋食を安価で提供すれば売れるに違いないと考え、浅草の洋食屋で一緒に働いていた原田屯に料理を任せて開店したのが須田町食堂でした。
「簡易洋食」の暖簾を掲げた同店は、安い内臓肉を使ったコロッケや、紙のように薄く切った肉のカツを出すといった工夫をして、それまで高級なイメージだった洋食を激安価格で提供しました。
こうして大幅に原価を抑えて作られた洋食は、本当の西洋料理とはほど遠いものでしたが、それまで洋食の味を知らなかった人々にとっては、安価でありながら贅沢な気分になれる店として、須田町食堂は爆発的な人気を博し、雨後の筍のごとく勢いで支店を増やし、わずか数年で東京都下に約90店舗を数えるまでになりました。
須田町食堂がこれまでの大衆食堂と違っていたのは、ただ洋食を廉価で提供しただけでなく、幅広い客層が利用できる作りであったことです。『赤主空拳市井奮闘記』(実業之日本社/1930年)によると、加藤の考え方について、「従来の縄のれんの「めし屋」では、あまりにも非現代的で、非洋服的である。洋服の会社員や学生が入っても悪くなく、しかも半纏着の労働者にも少しも威圧的でない民衆食堂の出現こそ、時代の要求に添ふものだと彼は信じたのであった」と書かれてあり、このことから、それまでの外食店は、上流層が利用する店と労働者層が利用する店は完全に分かれていたことがわかり、そこに須田町食堂は、広い意味で「大衆」が利用できる店であったことが、成功の理由の一つとしてあったようです。このように、関東大震災をきっかけに、日本の食生活の流れはガラリと転換し、外食することは日常的な行為となり、富裕層向けの洋食とは違う、本当の意味での大衆的な洋食が生まれ、浸透していくターニングポイントとなりました。
それまで、富裕層の嗜好品であり、先進気取りの「ハイカラ」な人々が贅沢気分で食べていた洋食が、大衆的で日本的な洋食として本格的に発展・定着していったのは、震災以降と言えるでしょう。また、震災によって関東から西日本方面へ移住した料理人も多く、関東のコックの流派が関西や九州などに広まることになり、関東大震災は、洋食文化や技術の日本全体への普及にも間接的な影響を与えました。
●コックの団結
西洋料理を学んだコックが全国に広がっていくと、師弟・同門などが親睦会のような団体を各地域に作るようになり、そこに、全国的な規模を持った二つの大きなコックの組織が大正時代に結成されました。
その一つが、1914年(大正三年)に結成された「東洋司厨士会」(通称「東厨会」)で、これは東洋軒と宝亭の出身者によるOB会のような組織で、今川金松を会長に約千人もの会員で結成された大組織でした。
もう一つが、ほぼ同じ頃から全国の有志のコックによって下地が作られ、1925年(大正十四年)、日比谷松本楼で正式に発会式を挙行して誕生した「日本司厨士協同会」です。これには東厨会のメンバーも参加し、精養軒や中央亭、風月堂をはじめ、全国各地の様々な経歴のコックによって結成され、初代会長には、水交社の宇野彌太郎と、中央亭創業者の渡辺鎌吉の門下生で、当時の西洋料理界で元老のような存在であった前田誉次郎が就任しました。
こうした組織は、コック同士の親睦・交流を深めると同時に、現代のような情報化社会でなかった当時に、会を通じて各地の近況を知ったり、会報に調理技術を掲載して共有したり、職場を斡旋したりと、情報を交換する場として大きな役割を果たしました。
また、日本司厨士協同会は、1924年(昭和九年)に『日本司厨士協同会沿革史』を発行し、そこには日本の西洋料理界のそれまでの歩みや、当時の会員(コック)の経歴などが詳しく書かれ、日本の西洋料理界の黎明期の様相を知る貴重な資料となっています。