日本の西洋料理の歴史

20.横浜ホテルニューグランドとサリー・ワイル


●横浜復興の一大プロジェクト・「横浜ホテルニューグランド」

 震災よって壊滅的な打撃を受けた横浜は完全に荒廃し、横浜の来訪者は、「テントホテル」と呼ばれた、ホテルとは言うものの、ビニールで屋根を張ったほとんど仮設宿舎のような施設で宿をとる、というような有様でした。
 そこで、横浜を復興することはもちろん、これまで横浜にあった経済活動が東京に移ってしまうことを危惧した横浜財界の後押しもあり、横浜市長は「横浜市復興会」を結成し、そこで「外人ホテル建設の件」という決議がされ、そうして1927年(昭和二年)に開業したのが、「横浜ホテルニューグランド」です。

 会長には、東洋汽船出身で横浜市復興会計画部長の井坂孝が就任し、井坂は、かつての部下で東洋汽船サンフランシスコ支店長をしていた土井慶吉を実行リーダーとして自分の補佐につけると、土井は、総支配人にパリの一流ホテルからアルフォンゾ・デュナンを引き抜き、サービススタッフは主に英語の話せる東洋汽船から引き抜くなどして、オープニングの陣容を固めました。また、設計は渡辺仁で、後に欧米の一流ホテルにもひけをとらない設計と設備のホテルとして評価を得ました。

 中でも特筆すべきはレストランとその料理でした。「本場フランス式の料理」を看板に、飲食部門には特に力を入れ、総料理長には、アルフォンゾ・デュナンの推薦で、パリのホテルで一緒に働いていたスイス人コック、サリー・ワイル(通称エスワイル)を呼び寄せ、その補佐には元帝国ホテル第四代総料理長の内海藤太郎が就き、開業後にはさらにその補佐として鎌倉海浜ホテル料理長の荒田勇作が就くという豪華な顔ぶれでした。
 この、パリの第一線で活躍しているコックがニューグランドに招聘されたという噂はたちまち日本の西洋料理界に広まりました。そのワイルの技術を学ばんと、ニューグランドへ入社を希望するコックが日本全国から殺到し、一番の下働きである鍋洗いに元ホテルの料理長がいたというくらい人材で溢れ、当時のニューグランドの厨房は、さながら西洋料理の梁山泊のような様相を呈しました。ニューグランドの常連客で、食通でも知られた作家の獅子文六(1893〜1969)は、「あれだけのものは、その頃、東京で食えなかった」と言い、ニューグランドの料理は当時日本一と言えるほどの評判になりました
。 

●新風を巻き起こしたサリー・ワイル

 ニューグランド初代総料理長となったサリー・ワイルは、日本の西洋料理界に数々の革新をもたらしました。
 ワイルの料理は、その頃の日本ではまだ広く知られていなかった最新のエスコフィエの料理をベースに、港町横浜という地の利を活かして、最高の食材が世界から集められ、当時の日本で可能な限りの最高の料理が作られました。また、フランス語に堪能な内海との連携も良く、メニューには帝国ホテルで外人客を虜にした内海の得意料理も加わり、当時利用者の八割を占めていた外国人客は、ニューグランドの西洋料理に舌鼓を打ちました。

 最も画期的だったのが、グリル・ルームでのア・ラ・カルトメニューです。
 ワイルはニューグランドに設計段階からかかわり、メインダイニングとは別にグリル・ルームを設けることを提案し、そこでは日本ではあまり馴染みのなかったア・ラ・カルトメニューを全面に打ち出しました。
 さらにそこに、「コック長は此のメニュー以外の如何なる料理にても御用命にも応じます」と書き、ワイル自らテーブルサービスを行ってオーダーを取り、顧客の要望次第に応じて即興で料理を作るといった、これまで日本のレストランでは見たことのない全く新しいサービスを行いました。

 ア・ラ・カルトは、それまでの日本のレストランに全く存在しなかったわけではありませんが、それまでの日本のホテルやレストランは、フランスの宮廷料理のスタイルをベースとし、基本的に大皿に豪華に盛ってそれを取り分けるか、定食(コース)で提供するのが基本的スタイルで、単品料理は付属的な存在でした。むしろ、一人前だけを皿盛りにして単品料理として提供するのは大衆食堂がやる粗末な食べ方で、格の高い店はすべきではない、とすら考えられていました。もし単品で頼んでも料金は定食(コース)と同じ値段が取られるようなこともあったほどで、ホテルのように格式のあるレストランでは一般的ではない食べ方でした。

 しかし、当時のヨーロッパでは封建社会の崩壊とともに、格式や無駄な豪華さにこだわる必要がなくなり、特に郊外のリゾートホテルのレストランなどでは、カジュアルにア・ラ・カルトを楽しむスタイルが主流になっていたので、ワイルはその最新の流行を日本に持ち込み、ア・ラ・カルト主体のメニューをグリル・ルームで提供したのでした。
 ワイルの作ったグリル・ルームは、単に一品だけ注文して楽しむことが出来ただけでなく、肩肘張ることなくラフな服装で、食事中に煙草を吸ってもよいという、それまでの日本のレストランにあった格式ばったイメージを打ちこわし、格のあるレストランでありながら、それをカジュアルに利用する楽しさを知らしめました。また、ワイルのカルト料理は、ヨーロッパ各地のリゾートホテルなどを回った経験を活かし、イタリア料理やオーストリア料理、ロシア料理、アメリカ料理といった、今まで日本で知られていなかった西欧各国の料理や、「ドリア」に代表されるオリジナル料理を提供したことも画期的でした。こうしたワイル式のグリル・ルームは大ヒットし、世間のグルメ達の話題をさらっただけでなく、日本の洋食のレパートリーを広げることにも貢献しました。
 
実際には、グリル・ルームとア・ラ・カルトメニュー自体は、ニューグランドより先に、帝国ホテルが1923年(大正十二年)に導入していたのですが、この時はそれほど話題にはならず、ニューグランドのワイル式のほうが有名になったのは、料理そのものから食事のスタイルまで、あらゆる面で新しく画期的だったからでしょう。

 この爆発的な人気を受けてニューグランドは、1934年(昭和九年)、東京の数寄屋橋にレストラン「東京ニューグランド」を出店し、1936年(昭和十一年)には「富士ニューグランド」といったホテルの支店も開業しています。

 また、厨房の組織作りについてもワイルは斬新でした。これまでの日本のホテルやレストランでは、セクションごとに親方がいて組織まで分権していたり、何か一つの料理の名人であればそれだけでやっていけることもありましたが、「一つのセクションの仕事しか出来ないのはコックとして恥」と言い、ローテーション制によるコックの教育制度を導入しました。さらに、裸足で働くコックにちゃんと靴下を履かせるといった、職業人としてのマナーに至るまで細かな指導をし、労働時間の適正化を図ったり、外国語学校に通うことを奨励するなど、革新的ともいえる様々な取り組みを行ったことも、日本の洋食界の発展に大きく寄与しました。

 これらによって、ワイルの下からは先進的で優秀なコックが数多く育ち、昭和初期から戦後にかけて、「ニューグランド系」と呼ばれるニューグランド出身のコックが、全国のホテルや街場のレストランで活躍するようになります。
 1928年(昭和三年)には早くも飯田進三郎が大阪「レストラン・アラスカ」に料理長として招かれて腕をふるい、1933年(昭和八年)には近藤茂晴が東京・人形町に「仏蘭西料理店・芳味亭」を開業し、1938年(昭和十三年)には荒田勇作が不二家のレストラン部の料理長として招かれます。
 中でもアラスカは、飯田進三郎が導入したワイル式のア・ラ・カルトメニューがたちまち評判となって関西一のレストランと呼ばれるほどの名声を獲得し、全国にいくつもの支店を出し、現在も営業しているほどですが、そのことからも、ニューグランドのメニューがいかに当時の日本で斬新だったかがわかります。
 ニューグランド出身のコックの活躍は戦後も目覚ましく、「日活国際ホテル」の初代総料理長となり、東京オリンピックでは選手村の総料理長となる馬場久、プリンスホテルグループを統括する総料理長となる木沢武男、「ホテルオークラ」取締役総料理長となる小野正吉、「日航ホテル」初代総料理長となる水口多喜男など、戦後の西洋料理界を牽引した錚々たる名コック達が、ワイルが指揮するニューグランドの厨房で育ちました。

 このように、ワイルを総料理長に迎えたニューグランドが、日本の西洋料理界に新時代をもたらしました

 

←Back         Next→
      


 →TOPへ