日本の西洋料理の歴史

21.目覚ましく発展する西洋料理界


●ホテル業界

 横浜ホテルニューグランドが華々しいデビューを飾ると、帝国ホテルは、ニューグランドに後れを取るなと言わんばかりに、1928年(昭和三年)に、コックの海外研修制度を設け、フランスの最新の技術と流行を取り入れようとします。
 その海外研修一期生としてフランスに派遣されたのが、後に第八代総料理長となる石渡文治郎と、セカンドの栗田千代吉でした。2人はフランスに渡り、ホテル・リッツでエスコフィエから直接指導を受け、石渡は帰国すると総料理長に就任してメニューを一新し、帝国ホテルにおける近代フランス料理の礎を築きました。

 また、関東大震災以降、景気は依然として低迷し、経済活動が都市部に集中していたので、外国人客を誘致して外貨獲得をするためにも、全国でホテルの建設が盛んになります。
 そして、震災の翌年の1924年(大正十三年)、東京駅前に、「丸の内ホテル」が開業します(2004年に現在地に移転)。初代料理長は林惣八で、後に全日本司厨士協会初代会長を務める斎藤文次郎も開業と同時に入社し、以後三十八年間にわたって勤め上げることになります。
 また、1930年(昭和五年)に「東洋ホテル」、1932年(昭和七年)に「山王ホテル」が開業し、そして1938年(昭和十一年)には、客室数が626室あり、当時「東洋一の客室数」と言われた「第一ホテル」(現在の「第一ホテル東京」)が新橋に開業し、料理長は、イギリス大使館出身で、第六代帝国ホテル総料理長だった高木米次郎でした。
 
 関西方面でも、1926年(大正十五年)に「宝塚ホテル」、1928年(昭和三年)に「京都ステーションホテル」(料理長は樋口満衛)、1930年(昭和五年)に「甲子園ホテル」(料理長は華族会館料理長だった鹿中英助)、1931年(昭和六年)に「ホテル・パインクレスト」が兵庫県の夙川に開業し、後に関西料理界のリーダーとなる井上幸作はここで修行しています。そして、1935年(昭和十年)には「新大阪ホテル」が開業します。この新大阪ホテルは、大阪の政財界による一大プロジェクトによって生まれた国際ホテルで、料理長には帝国ホテル出身の菊川大平、セカンドには後に帝国ホテル第九代総料理長となる常原久彌が就き、長らく関西一のホテルとして活躍し、現在は大阪ロイヤルホテルに継承されています。
 なお、甲子園ホテルは、「西の帝国ホテル」とも言われ、帝国ホテル設計者のフランク・L・ライトの弟子である遠藤新が設計し、「日本近代建築史上に残る傑作」として称賛され、現在ホテル営業はしていませんが、武庫川女子大学の校舎として現存しています。

 地方では、1938年(昭和十一年)、「世界に通用するホテルを名古屋に」の考えのもと、名古屋市が「名古屋観光ホテル」を開業して名古屋を代表するホテルとなり、同年、帝国ホテルを創設した大倉喜七郎が、静岡県の伊東に「川奈ホテル」(料理長は帝国ホテル出身の長峰六郎)を開業し、このホテルには、後にホテルパシフィック東京の総料理長となる杉山輝雄や、ホテルニューオータニ第二代総料理長となる古谷春雄が開業と同時に入社しています。また、北海道では1934年(昭和九年)に札幌グランドホテルが開業しています。

●昭和の洋食店

 昭和に入ると、東京では今日においても日本の洋食レストランの最高峰に数えられる「資生堂パーラー」のレストラン部門が1928年(昭和三年)に開業し(資生堂パーラー自体は1902年の開業)、初代料理長には飯田清三郎、次長に高石^之介が就任しています。
 また、1900年(明治三十三年)に本郷で創業したパン屋の「中村屋」(現在の「新宿中村屋」)が、1927年(昭和二年)にレストラン部を開設し、そこでインド人のラス・ビハリ・ボースによる「カリーライス」の提供を開始し、イギリス式の欧風カレーが主流だった当時には珍しい、本格インド式のカレーが評判になり、現在でも中村屋の名物になっています。
 1928年(昭和三年)には、三重県津市に、東洋軒の支店「東京東洋軒出張所」が猪俣重勝を料理長として開業し、この店は現在も営業を続け、現存する東洋軒直系の唯一の店となっています。
 1930年(昭和五年)、新橋駅(旧東京駅)の駅構内に、「日本遊覧協会食堂部」というレストランが開設され、これは後に「つばめグリル」に改称し、現在も首都圏を中心に多店舗展開しています。

 この頃のエポックとして、京都のスター食堂は、創業者・西村寅太郎がアメリカでの経験を活かして、日本で初めてとなるレストランの本格的なチェーン展開に取り組みます。「本店台所制度」という、現在でいうセントラル・キッチンを本店に設置し、食材を一括して仕入れ、一次調理をまとめて本店で行い、それを店舗に配送して各店で最終仕上げするという仕組みを構築し、1935年(昭和十年)頃には十一店舗まで展開しました。
 また、不二家が新宿や大阪、京都などにも進出し、全国にその名が知られるようになっていきます

●ビアホールの流行

 ビールをメインの飲み物として食事を楽しむビアホールは、ビールの本場・ドイツで生まれたスタイルですが、日本で初めてとなるビアホールは、1897年(明治三十年)に、大阪麦酒株式会社(現・アサヒグループホールディングス株式会社)が、大阪の中之島に開いた「アサヒ軒」が最初とされ、「ビアホール」という名前を初めて冠したのは、日本麦酒株式会社(現・サッポロホールディングス株式会社)が1899年(明治三十二年)に銀座で開業した「恵比寿ビール・ビアホール」です。
 日本でのビールの普及とともに、ビアホールも人気を高め、昭和に入ると多くのビアホールが生まれました。
 1934年(昭和九年)には、精養軒から大日本麦酒株式会社(旧・日本麦酒株式会社)に経営が移った銀座のカフェ・ライオンがビアホールに転じ(現在の「サッポロ銀座ライオン」)、駿河台下の洋食屋・ランチョンもビアホールに転換します(現在の神保町「ランチョン」)。

 また、日本有数の海産物問屋だった森卯商店が、大日本麦酒株式会社から権利を得て、恵比寿ビアホールを新宿や渋谷に展開して成功を収めると、社長の跡取り息子の森新太郎は、事業そのものを海産物問屋からビアホールに転換することを決めます。
 そして、1937年(昭和十二年)、有楽町の数寄屋橋に、一階・ビアホール、二階・生ビールと和食、三階・生ビールとすき焼き、四階・カフェ、五階・ビアテラスという、日本で初めてとなる五階建ての総合飲食ビル「ニユートーキヨー」をオープンし、さらに同年十二月には、銀座にビアホール「ミュンヘン」を開業します。
 これらの店は連日行列の大繁盛店となり、そこから瞬く間に店舗展開して翌年には十三店舗を数えるほどになり、社名も変更し、これが現在の「株式会社ニユートーキヨー」となります。

●洋上の豪華レストラン

 ホテルや街場のレストランとは別に、海の世界では、日本郵船株式会社や東洋汽船、大阪商船(現・株式会社商船三井)といった船舶会社が、船内レストランの質の向上を争っていました。
 まだ旅客飛行機がなかった当時、海外への移動は専ら船であり、移動にかかる日数も相当なものであったため、船上生活の娯楽の一つとして、レストランは非常に重要な位置を占めていました。
 特に内外の賓客・富裕層が利用する豪華客船の船内レストランは豪勢さを極め、一流のコックと食材を揃え、世界の高級レストランと同等のレベルを誇っていたと言われています。中でも、1929年(昭和四年)に航行を開始した、日本郵船が誇る最高の豪華客船「浅間丸」の料理は、当時の食通達をして「帝国ホテルよりうまい」と言わしめたほどだったと言われています。

 日本郵船では、コックの養成所を作り、フランスから第一線で活躍しているシェフを破格の高給で引き抜いて指導員に迎え、そこで教育を受けて合格した者だけが船に乗れるというようなこだわり具合でした。1938年(昭和十三年)に招いたフランス人シェフ・ポール・ボティジは、当時「総理大臣より高い」と言われていた日本郵船社長の次に高い給料を取っていたそうで、そうした逸話からも、日本郵船がどれだけ料理に力を入れていたかが伺えます。
 また、サービススタッフにも帝大卒クラスの優秀なスタッフを揃え、海外研修も実施するほど注力し、こうした優れた人材と熱心な教育によるハイレベルな船のサービスは、世界から高い評価を受けるとともに、多くの優れた人材を輩出しました。

 こうした船上レストランの出身者が開業した店としては、1932年(昭和七年)に開業した神戸の老舗「レストラン・ハイウェイ」(厳密にはこの店を開業したのは大阪のレストラン・アラスカで修業した大東正信で、開業して一年で他界したため、その後を「浅間丸」で修業した兄の大東八郎が継いだ)や、1933年(昭和八年)に、東洋汽船出身の鶴谷幹次郎が横浜で開業した「オリムピック」(現在の「グリル桃山」)などが挙げられます。
 また、横浜ホテルニューグランドの総料理長サリー・ワイルを補佐した日本人料理長の三代目・島崎幸吉や、大阪明治屋ビル中央亭料理長の藤岡章介、後に箱根小桶園ホテル料理長となる海老沼幸七なども、日本郵船出身のコックでした。

●カフェの変貌

 昭和に入ると、「カフェ」は異質な変貌を遂げることになります。
 カフェは、ヨーロッパにおいて文化人達のサロンとして愛され、日本でもはじめはそれを目指して作られましたが、関東大震災後、「カフェー・タイガー」が開業したあたりから、全く違う方向に向かっていくことになります。
 カフェー・タイガーは、関東大震災の翌年、1924年(大正十三年)に銀座に開業し、斜め向かいにあったカフェ・ライオンに対抗するために、派手な化粧をした女給が男性客に寄り添うようにサービスするスタイルを取り、料理や飲み物は二の次という、それまでのカフェとは全く違う営業スタイルでした。
 これまでのカフェは、西洋と同じように文化人のサロンとして、一般人には敷居が高いと思われるくらいインテリ色の強い場所で、むしろ品のない行為をする女給は解雇されたほどでしたが、そこにカフェー・タイガーは、全く逆の路線を取ったのでした。
 さらに昭和に入ると、胸元をはだけた服装で過激なサービスをする、現在でいうところのキャバクラのような「カフェ」が大阪で生まれて瞬く間に流行し、その大阪流のカフェが東京に進出すると、東京のカフェも一変して大阪流に染まり、ついにカフェは1933年(昭和八年)、警察の管轄下に置かれることになり、もはやカフェは飲食店ではなく、ホステスが過激なサービスを行う「風俗業」に変貌しました。

 一方、純粋にコーヒーやお茶を飲みながら寛ぐ本来のカフェ的な店は、警察の規制対象となったカフェとは区別されて「喫茶店」と呼ばれるようになります。こちらは関東大震災を境に劇的に増加し、大正期には100軒もなかったのが、昭和に入ると、新宿・神田・渋谷などを中心に東京だけで2,000軒を超えるほどになり、ミルクホールもそうした喫茶店と融合し、それまではハイカラなインテリ層の飲み物だったコーヒーが大衆の飲み物として定着していきました。
 こうして、日本のカフェ文化は、日本式の「喫茶店」文化になり、再びヨーロッパ的なカフェ業態が日本に広まるのは、ずっと後、平成以降のことになります。

 

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