日本の西洋料理の歴史

22.敗戦とアメリカ食の流入


●敗戦と洋食のアメリカナイズ

 日中戦争、そして第二次世界大戦の激化と敗戦によって、日本の料理界の歩みは一時停滞します。
 1937年(昭和十二年)から始まった国民精神総動員、1938年の国家総動員法などによって、物資は優先的に戦争にまわり、日本国民の生活は激しく制限され、「ぜいたくは敵だ」という標語に代表されるように、食生活も極度に質素になっていきました。
 そして1939年(昭和十四年)、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まり、1941年(昭和十六年)には、日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告をし、日本国民は完全に戦争の渦中に飲み込まれていきます。
 戦争末期には、ホテルは軍に借り上げられたり、空襲で焼失したり、レストランは食糧難で営業がままならなくなり、多くのホテルやレストランが廃業に追い込まれました。また、多くのコックが戦地に召集されて散り散りになり、シベリアで拘留されて帰国出来なかったり、帰らぬ人となったコックも少なくありませんでした。
 
 そして日本が戦争に負けると、ほとんどのホテルがアメリカ進駐軍の宿泊施設としてGHQに接収され、1947年(昭和二十二年)に発令された「飲食営業緊急処置令」によって、レストランは自由営業が出来なくなり、多くのコックが復職出来ませんでした。
 幸いにしてホテルやレストランで働くことの出来たコックも、食材が不足していることや経済統制のため、思うように料理が作れず、西洋料理に関しては、作ることが許されたのは米兵向けの料理に限られ、勝手な料理を作ると警察に連行されて罰せられたほどでした。それでも、生きるために無許可でヤミ営業しているコックは多く、洋食を日本名に変えて売ったり、戦前はホテルで料理長をしていたような大コックが、屋台をひいてコロッケやシチューを売って日銭を稼いでいたりもしました。

 ただ、そうした経済統制や食糧難の状況に、アメリカから多くの食材が持ち込まれ、米軍基地の食堂などでアメリカ人相手に作られた料理法から、これまでの西洋料理とは違う、アメリカ洋食というべき新しい料理が生まれました。米軍が軍用食として大量のトマトケチャップを持ち込んだので、味付けやソース代わりにケチャップを用いることが増えたのも大きな変化でした。
 こうした、アメリカ洋食の影響下に生まれたレストランとしては、横浜センターホテル(サリー・ワイルが経営)のコックだった石橋豊吉が開業した、「アメリカ式洋食・センターグリル」(1946年開業)、米軍基地のコックだった貴邑富士太郎が開業した「洋食のキムラ」(1949年開業)、中央亭出身でGHQ接収時のニューグランド料理長だった平野勇吉が開業した「洋食の美松」(1958年開業)、などがあり、いずれもアメリカ色を残した洋食の名店として今も高い人気があります。

●アメリカがもたらした芸能文化と立食パーティ

 GHQ接取時のホテルでは、進駐軍の慰問として様々なレクリエーションが行われ、そこでは多くの日本人が歌やダンスで活躍し、そこからペギー葉山、雪村いづみ、江利チエミ、淡谷のり子、ジョージ川口、トニー谷といった、往年のビッグスターが育ちました。
 そうしたショーやパーティを通じて、日本にアメリカのポップスやジャズなどの音楽が普及するとともに、現在のホテルでもよく行わる立食パーティの形式が日本で確立したと言われています。

 

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