日本の西洋料理の歴史

23.経済の自由化とレストランの復興


●飲食店の営業再開とホテルの接収解除

 終戦後にホテルがGHQに接収され、コックが仕事を求めて街場に散っていったことで、結果的に新しいレストランが全国各地に増えていきました。そして、1949年(昭和二十四年)には飲食業の営業が再開され、1952年(昭和二十七年)には、帝国ホテルや横浜ホテルニューグランドをはじめとして、ホテルが次々と接収解除されると、ホテルも元の活況を取り戻していきました。
 特に、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需により、急速に日本経済が盛り返し、日本国民全体の生活がようやく普通の水準になっていったことも、ホテル・レストラン復興の後押しをしました。

●ニューグランド系コックの勇躍

 そうした中で目覚ましい活躍をしたのが、ニューグランド出身のコック達でした。
 総料理長サリー・ワイルの下、進歩的な教育を受けたニューグランドのコックは、ア・ラ・カルトで鍛えた幅広い単品料理のレパートリーだけでなく、職業人としてのマナーも身に付けていたため、レストラン経営者にとってうってつけの人材だったからです。

 ニューグランドのコックが腕をふるったレストランには、銀座「ブリジストン・アラスカ」の荒田勇作、銀座「花馬車」の馬場久、銀座「みかわや」の渡仲豊一郎、銀座「コックドール」の林久次、銀座「エスコフィエ」の平田醇、五反田「フランス屋」の今井子之作、銀座「レストラン山和」の木沢武男、日比谷「アラスカ」の小野正吉、博多「ザ・ロイヤル」(現在の「花の木」)の前川卯一などがあげられ、これらのレストランは、いずれも政財界の重役が利用する、一流のレストランとして名声を得ました。
 また、1960年代から到来するホテルブームに際しても、「日活国際ホテル」には馬場久、「ホテルニュージャパン」や「東京プリンスホテル」に木沢武男、「ホテルオークラ」に小野正吉、「日本航空ホテル」に水口多喜男、「札幌パークホテル」に本堂正巳など、多くのホテルでニューグランド出身のコックが料理長として活躍しました。

 こうしたニューグランド出身のコック達は、「ニューグランド系」と呼ばれ、1940年代〜1960年代、昭和の初期から中期にかけて一時代を築き、関東の西洋料理界では、「帝国ホテル系」と「ニューグランド系」がコックの二大流派と言われました。

●西洋料理店の再興

 ニューグランド系以外でも、街場のレストランでは、日本郵船の豪華客船「龍田丸」で司厨長を務めた板倉作次郎が、1947年に横浜でフランス料理店「かをり」を開業し、1954年には、同じく横浜で日本郵船出身のコックを料理長に、レストラン「グリル・エス」が開業するなど、船上のコックも街場で活躍していきました。横浜では、1947年にフィンランド人・コモルアンドコモルが、海岸通りにレストラン「ザ・ホフブロウ」(現在の山下町「レストランホフブロウ」)も開業しています。
 関西でも、1948年に京都の四条大宮に「グリル・エーワン」(現・株式会社ミュンヘン)が開業するなど、戦後統制下でも早くから営業開始する店はあり、また、密航してヨーロッパに渡り、ロンドン・フランスと18年にもわたる修行を経て帰国した志度藤雄が、1950年に銀座に「メイゾン・シド」(現在、息子が「レストラン・志度」として継承)を開業し、1957年には、現在でもフレンチの老舗として知られる高級フランス料理店「クレッセント」が東京・芝で開業し、料理長には東洋軒出身の川瀬勝博が就くなど、西洋料理界も徐々に再興していきました。

●戦後の食生活の変化

 戦後、日本人の価値観や生活の変化に伴い、食生活も大きく変化しました。
 特に、戦後食糧難にあった日本では、アメリカから多くの食料が持ち込まれたことや、GHQが西洋野菜の栽培を奨励したこともあって、それまでは嗜好品であった西洋食材が、日本国民にとって日常食となって身近になっていったことが理由の一つとしてあげられます。
 また、天皇の人民宣言や華族制の廃止など、戦前の封建時代が終焉し、GHQの指導による1947年〜1952年の財閥解体によって経済活動も一度分解し、日本社会が民主化していったことも、日本社会に大きな変革を与えました。
 そして、アメリカの影響を受けた気軽な洋食店が増え、1950年からの朝鮮戦争の特需により急速に日本経済が盛り返し、日本国民全体の生活がようやく普通の水準になっていったことなど、様々な要因がからみあって、それまでは富裕層の食べ物だった西洋食が、この時代になってようやく本当の意味で大衆食へとなっていきました。

 また、戦後は西洋料理そのものにも変化が現れました。
 敗戦によって経済的にも物資的にも欠乏し、しかも西洋料理の頂点であるホテルがアメリカに接収された日本では、正統な西洋料理の文化が一時断絶しました。 
 当時の流通技術では、ただでさえ本場フランスと同じ料理を作るのは難しかったところ、敗戦によって経済的にも物質的にも欠乏した状況では、難しいどころかまともな西洋料理が作れず、あり合わせの食材でアレンジせざるを得ず、ある意味、戦前よりも退化したような西洋料理が提供されるようになっていました。
 例えば、フランス料理のソース作りにワインは欠かせませんが、ヨーロッパで18年間もの修行をし、「彼の料理こそが本物のフランス料理」とまで評され、食通で知られた吉田茂首相が常連として通っていた志度藤雄の店にすら、人工的な味や風味付けがされた人工ワインしか置いてなかったと言われ、戦後のしばらくは、社会・経済的事情から、西洋料理のレベルはある意味戦前よりも低下している面もありました。1918年(大正七年)生まれでホテルオークラの総料理長を務めた小野正吉は、フランス料理で多用される「仔牛」について、『ソースの本』(1965年・辻静雄著)の対談の中で、「日本でも三十年ぐらい前には、ずいぶん豊富に使っていましたから、昔のほうがおいしかったなんて人がいますが、今の仔牛の質も戦前にくらべると、グンと落ちているし、量は使えない。たくさん使ったらコストがかかってしょうがない」と述べています。
 1960年代にヨーロッパ修業に出たコックの証言でも、基本技術について日本のレベルは決して本場に劣っていないという発言が見られますが、食材についてはあまりの日本のレベルの低さを嘆いています。

 しかし、そのことが逆に、独自の日本的な洋食の発展を促しました。
 アメリカ進駐軍により、戦後容易に手に入るようになったケチャップやベーコン、パスタといった食材を利用し、外国人客のためではなく、日本人客のための日本的な洋食として進化し、フレンチともイタリアンとも、かといって和食とも言えない、ハンバーグやポークジンジャー、スパゲッティ・ナポリタンやスパゲッティ・イタリアン、チャーハンのような洋風ピラフといった、独特の「洋風」料理が生まれ、より日常食に近い形で日本の食文化の中に浸透していきました。

 また、米軍が日本のホテルや食堂に持ち込んだ最新の厨房設備機器や冷凍食品、優れた衛生管理の手法は、当時の日本のホテル・レストランの従業員に、カルチャーショックを与えました。
 日本のホテル業界を世界的水準まで引き上げた立役者と言われる、当時の帝国ホテル社長・犬丸徹三は、著書『ホテルと共に七十年』の中で、「日本人は元来、衛生思想を重んずる清潔好みな国民であると、かねてから考えていた。(中略)一旦、進駐軍の接収化に入ってみると、日本のホテルにおける料理場の衛生標準が米国のそれより、はるかに低度であることを身を以って知った」と書き、他にも、食材の保管方法や、防火の概念など、日本よりもはるかに進んだ米国の管理手法に目を覚ませられ、その後の日本のホテル・レストランの発展に大きな影響を与えました。

 

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