日本の西洋料理の歴史

24.新しい西洋食文化


●本格イタリアンの登場

 ここにきてようやく、フランス料理ではない西洋料理の専門店が頭角をあらわします。
 1950年に西麻布で開業した「アントニオ」は、イタリア料理の専門店で、この店は、イタリア海軍最高司令官の専属料理人だったアントニオ・カンチエミが開いた店でした。
 アントニオ・カンチエミは、はじめ1944年に神戸で飲食店を開いていたのですが、終戦後東京に移転し、イタリア料理店として新たなスタートを切ったのでした。その後、代官山に移転して「パパ・アントニオ」と改称し、現在も営業しています。
 また、神戸で、もう一軒のイタリア料理の専門店「リストランテ・ドンナロイヤ」が1952年に開業します。この店は、イタリア人コックのジュゼッペ・ドンナロイヤが開業した店で、現存する神戸で最古のイタリア料理店と言われています。
 1953年には、横浜の元町に、「イタリー料理・オリジナル・ジョーズレストラン」が開業しています。

 そして1960年に、日本人による本格イタリア料理店の草分けとなる「キャンティ」が六本木に開業します。この店は、川添浩史・梶子夫妻が開いた店で、海外経験の多かった二人が、日本にも本格的なイタリアンレストランを作りたいと考えて、イタリア大使館でコックを務めていた佐藤益夫を招いてオープンした店でした。
 キャンティは、川添夫妻がこだわり抜いたハイセンスなデザインと本格イタリア料理によって注目を浴び、作家やデザイナー、ミュージシャンといった感度の高い文化人達に愛され、それまで高級レストランといえばほとんど「フランス料理」一辺倒だった日本の西洋食文化に、「イタリア料理」という新しい流行を巻き起こしました。
 ただ、この頃はまだまだ日本の流通も食材市場も発展途上だったので、フランス料理同様、本国と同じ材料を揃えることは難しく、バジルの葉の代わりにシソの葉を用いたり、オリーブオイルの代わりにバターとサラダ油を混ぜたりと、代替品で試行錯誤していた、日本のイタリアンの揺籃期でもありました。 

 また、戦後の食文化の変化を象徴するようなレストランの一つとして、1953年にパスタ専門店「Hole in the wall」(現在の「壁の穴」)が、東京の田村町に開業します。
 この店は、初代CIA東京支局長・P.C.ブルームの家で執事をしていた成松孝安が開業した店で、ブルーム邸では、政財界や学会の重鎮を集めた「火曜会」という会合が開かれていて、成松はそこの食事係りであった外人コックから技術を学び、ブルームの援助によってレストランを開業しました。
 成松は優れたメニュー・クリエイターで、今では日本のパスタ料理の定番となっている「たらこスパゲッティ」や「納豆スパゲッティ」といった、日本独自のパスタ料理の数々の傑作を生み出し、全国にその名が知れる名声店となりました。
 フランス料理が日本人向けの洋食としてアレンジされてきたように、成松はイタリア料理を日本人に馴染みやすいようにアレンジし、日本で入手しやすい食材を使用して安価で提供出来るよう様々な工夫をし、大衆向けの「パスタ専門店」の元祖として、また、日本的パスタ料理の生みの親として、日本の西洋食文化の発展に多大な影響を与えました。

●「バイキング」の登場

 一方ホテルでも、GHQの接収が解除されてからは、米軍向けのアメリカ料理ではなく、元のフレンチ・レストランへの復興に取り組みはじめました。また、ライバルホテルとの競争も再燃し、街場のレストランが台頭していったことを背景に、ホテルのレストランに新しい価値を作ろうとする動きも起こりました。
 そうした中、1957年に新しく開館した帝国ホテルの第二新館のレストラン、「インペリアルバイキング」は大ヒットしました。
 これは、北欧の「スモーガスボード」という、魚介や肉の燻製や酢漬け、塩漬けなどを豊富に盛った料理の店でしたが、それをお客様の好みで好きなように盛って食べられるという、今の「食べ放題」の代名詞ともいえる「バイキング」の元祖となるレストランでした。
  
 こうした戦後の洋食文化の潮流が戦前と違っていたところは、それまで嗜好品であり、あるいは珍しいもの好きの食べ物だった洋食が、アメリカの影響や、産業・経済の発展と、国民の生活水準の向上により、学校給食でもシチューやスパゲッティが出されるなど、誰にとっても身近なものになり、利用する階層が広がり、日本の食文化に浸透していったことです

 

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