日本の西洋料理の歴史

25.ホテル業界の再興と東京オリンピック


●ホテル不足

 終戦後、アメリカ進駐軍によって主要なホテルはほとんど接収されましたが、戦争によって焼失したホテルも多く、来日する軍関係者や外国人バイヤーなどが日本の経済復興と共に年々増加するにあたって、ホテルが不足していることが問題になりました。
 そこで、「ホテル・テイト」(東京)や「ホテル・ラクヨウ」(京都)といった、貿易庁直轄の官営ホテルが作られましたが、こうしたホテルのニーズに目を付けたのが、西武グループ創業者の堤康次郎でした。
 堤は、戦後の皇籍離脱や華族制の廃止によって特権を失い、経済的に困窮した旧家の邸宅を買収してホテルに改造し、1948年、軽井沢に「千ヶ滝プリンスホテル」(朝香宮邸。このホテルは一般向けではなく皇室専用)、1953年に「品川プリンスホテル」(竹田宮邸。現在の「高輪プリンスホテル貴賓館」)、1955年に「赤坂プリンスホテル」(李王家邸)を開業し、これらが、後に西武グループが展開する日本最大のホテルチェーン・プリンスホテルグループのはじまりとなります。

 また、1946年に三重県の伊勢志摩地区が国立公園に指定されたのを機に、リゾートホテル建設の計画が作られ、そうして1951年に誕生したのが「志摩観光ホテル」です。
 戦後の復興に外貨の獲得は不可欠なので、外国人客を誘致するために作られたこのホテルは、戦後に開業した最初のリゾートホテルで、料理長には、内海藤太郎の弟子で、大阪ホテルの料理長だった小島鶴吉が就任しました。

 また、1950年〜1960年年代は、日本映画界の黄金時代で、中でも日活株式会社は、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、岡田真澄といった日本映画界に名を残す大スターを擁した映画会社で、全盛時代を迎えていました。その全盛期を作り出した日活の社長・堀久作は、戦後の復興のために国際的な施設を作りたいと考え、そこで1952年に開業したのが、「日活国際ホテル」です。
 総料理長を務めたのは、横浜ホテルニューグランド出身で、ワイルが最も可愛がった弟子と言われている馬場久。馬場は、戦後に銀座のレストラン「花馬車」で料理長を務めていたところ、常連客であった日活社長・堀久作にその腕を惚れこまれて、日活ホテルに引き抜かれたのでした。
 「戦後最初の国際的高級ホテル」と称したこのホテルは、帝国ホテルが「政財界御用達のホテル」なら、日活ホテルは「文化人御用達のホテル」といわれ、国内の芸能人はもとより、外国の芸能人やハリウッドスターはこぞって日活ホテルを利用し、石原裕次郎や美空ひばりといった当時の大スター達は日活ホテルで結婚式を挙げ、このことが、日本人がホテルで結婚式を挙げるというブームを作ったと言われています。

 関西では、1958年に、「大阪グランドホテル」(後のリーガグランドホテル)が開業し、総料理長には、帝国ホテル第八代総料理長の常原久彌が就任します。
 このホテルは、当時「東洋一のホテル」と言われ、世界の著名人に利用される、関西を代表するホテルとなり、近くにあるフェスティバルホールで演奏会を行ったヘルベルト・フォン・カラヤンや、レナード・バーンスタインといった世界的な音楽家が顧客として名を連ねました。また、常原は、デンマーク人コック・コロイヤを雇い、帝国ホテルでヒットしていたスモーガスボードを十四階のレストランで実施し、これが関西で最初のバイキングスタイルのレストランとなりました。

●東京オリンピックと第一次ホテル建設ブーム

 1959年5月、1964年に開催される夏季オリンピックの開催地に日本が決定すると、観光国としての日本の位置づけは世界の中でも高まり、さらに飛行機の定期旅客運行が1951年に国内線、1953年には国際線が運航を開始するなどし、そうした背景によって宿泊施設の需要は一層高まり、日本にホテルの建設ブームが訪れます。

 ホテルニュージャパン、銀座東急ホテル、東京ヒルトンホテル、京都国際ホテル、新阪急ホテルなど、1960年〜1964年にかけて、多くのホテルが開業し、そして、1962年に「ホテルオークラ」、1963年に「ホテルニューオータニ」と、帝国ホテルと並んで“ホテル御三家”と呼ばれるホテルがこの時期に誕生します。

 ホテルオークラは、帝国ホテルの創立メンバーの一人だった大倉喜八郎の息子・大倉喜七郎によって、「帝国ホテルを超えるホテル」をコンセプトに作りあげたホテルでした。
 調理の総責任者には、帝国ホテル出身で、パリでも修行を積んだ長峰六郎が就任し、次長にはニューグランド出身の小野正吉と、川奈ホテルで長峰の部下だった杉山輝雄が就任しました。
 ホテルニューオータニは、大谷米太郎によって、「日本一のホテル」をコンセプトに作られたホテルで、レストランの初代料理長には中央亭出身の小林作太郎が就任しました。

 1961年に東京・丸の内に開業した「パレスホテル」には、内海藤太郎の弟子で東京會舘料理長だった田中徳三郎が総料理長に就任し、そこには田中徳三郎の弟子で、後にホテルグランドバレス総料理長となる堤野末継も東京會舘から同行しました。
 1963年に岡山の倉敷に開業した「倉敷国際ホテル」には、やはり内海藤太郎の弟子で、神戸オリエンタルホテル料理長だった岡山広一が総料理長に就任し、そこには後に同ホテル総料理長となる田上舜三もオリエンタルホテルから同行していました。
 そして1964年に、プリンスホテルグループの旗艦ホテルとなる「東京プリンスホテル」が開業し、開業時点では適任者がいないという理由で料理長は空席でしたが、そこにニューグランド出身で、ホテルニュージャパンで料理長を務めていた木沢武男が就任し、後に木沢は、日本一のホテルチェーンとなるプリンスホテルグループの全ホテルのレストランを統括する総料理長に就任します。

●東京オリンピック
      
 1964年、いよいよ東京オリンピックが開催されるとなると、世界から集まった選手が滞在期間中に利用する食堂が必要になりました。世界のトップアスリート達が日本に滞在する間の体力と健康の源となる食生活は非常に重要なことなので、その食堂のコックを務めるのは大変な重責であり、名誉なことした。

 そこで、全国から300人ものコックが集められましたが、そのリーダーに選ばれたのは、日活ホテル総料理長の馬場久氏で、副料理長には、横浜ホテルニューグランドの入江茂忠、東京第一ホテルの福原潔、帝国ホテルの村上信夫の三人が就きました。
 馬場が全食堂の食材供給を統括するサプライセンターの責任者となってメニューを作成し、ニューグランドの入江が女子選手用の女子食堂、第一ホテルの福原がヨーロッパ選手用の桜食堂、帝国ホテルの村上がアジア選手用の富士食堂のそれぞれ料理長となり、この四人を中心に選手村の食堂が運営されました。

 彼らこそがまさに当時の日本を代表するコックであり、1960年代は、「ホテルの料理長」が西洋料理界をリードしていた時代でした。
 この頃は、ホテルのレストランと街場のレストランでは「格が違う」という風潮があり、街場のレストランは格下の扱いを受ける傾向がありました。
 それは、この時代のホテルは外国人客を主な顧客とする高級ホテルがほとんどであり、そのレストランは当然ながら日本の「顔」として恥じぬよう、とにかく高いレベルを追求していたのに対し、街場のレストランの場合は、レベルが一様でなく、ピンからキリまであったからです。
 当時の多くのホテルにとってレストランは、基本的な位置づけとして、一つの「看板」であり、レストラン単体で利益が出ていることは必ずしも求められませんでした。レストランそのものの採算より、ホテルのブランドを高めるものとして機能することが重視され、経営はホテル全体で成り立てば良い、という考えが強くあったので、ホテルのレストランは、街のレストランに比べて、材料費と人件費を多くかけることが出来たのでした。

 もちろん、街場のレストランにも、荒田勇作が料理長を務めた銀座のブリジストン・アラスカのように、オーナーの方針で、金に糸目をつけずとにかく最高の料理を提供していた店や、パリの名店「カフェ・ド・パリ」をはじめ世界中で修行を積み、「業界稀に見る博学多才の士」と評された佐藤良造が料理長を務めた国会議員専用のレストラン「常盤家」、天皇の料理番・秋山徳蔵のライバルとして「官の秋山・民の岩堀」と称された岩堀房吉が料理長を務めた「三井倶楽部」のように、政財界のVIPだけが利用する会員制のレストランのような、例外的な店もありました。この頃は、現在のように税金の用途や株主の目がうるさく言われなかった時代だったので、様々な業界団体や企業が「○○倶楽部」などといった社交クラブを作り、そこの福利厚生施設として高級レストランが作られ、腕利きのコックが、パトロンの要望に応じて好きなだけ腕をふるっていたので、こうしたレストランの料理は、大ホテルのレストランにひけをとらず、時にはそれ以上のものが出されていたでしょう。

 しかし、一般営業している大半の街場のレストランは、当然ながら採算がとれるよう「真っ当な経営」を前提としていたため、必然的に、ホテルのレストランに比べ、どうしても経済的なメニューにならざるを得ませんでした。一流店で磨いた腕があっても、立地条件や客層次第で、大衆的な料理を作らざるを得ないのが、街場のレストランのコックの役割でした。
 そのため、かつて西洋料理の世界では、「腕のいいコックは、店を持ってもだめだ」と言われ、これは、「売値に合った料理では作れる料理に限界がある」ということを意味していました。そんな言葉があったほど、この時代のコックにとって最高の目標は、どちらかと言うと制限のある街場のレストランよりも、最高の食材を思う存分使用出来る大ホテルのシェフになることであり、こうしたことから、ホテルのレストランのほうが、街場のレストランよりも上だと思われる傾向にありました。

  

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