日本の西洋料理の歴史

26.海外修業時代の幕開け


海外修業第一世代のコック達 

 日本は敗戦国だったので、戦後しばらくの間、個人の海外渡航は厳しく規制されていました。今日のように、役所で手続きをすれば誰でもパスポートがおりるものではなく、厳しい審査を受け、渡航先の国の大使館で面接まで受けなければ渡航許可は認められず、何より、1964年の東京オリンピックが開催されるまでは、行き先の国での「身元受入れ人」がいなければ許可されなかったので、何のツテもない一般人が、料理修業のために個人的に渡欧するなどということは、非常に困難な時代でした。

 それでも、1960年代頃から、コックの海外研修に力を入れるホテルやレストランが増え、そのメンバーに選ばれたり、海外の日本大使館付きの料理人に応募したり、海外務めの親戚・知人などといったツテ・可能性をまさぐって海外に渡る道をつかみ、“海外修行”に渡るコックがあらわれます。

 初期の代表的なコックには、パリの三ツ星レストランでソーシエまで務めた浅野和夫(銀座「マキシム・ド・パリ」)や高橋徳男(「アピシウス」、「パ・マル」)、オーストラリアで修行した“料理の鉄人”としてお馴染みの坂井宏行(「ラ・ロシェル」)、オランダで修行した勝又登(「ビストロ・ド・ラ・シテ」「オー・ミラドー」)、デンマークを入り口に12年間フランスで修業した酒井一之(「ビストロ・パラザ」)、フランスで10年間修業をした小原敬(「おはらス・レストラン」)、1970年代初頭には、鎌田昭男(「東京ドームホテル」)、石鍋裕(「クイーン・アリス」)、斉須政雄(「コート・ドール」)、城悦男(「ヴァンサン」)、熊谷喜八(「株式会社キハチアンドエス」)などがいます。
 彼らこそ、戦後の日本フランス料理界における海外修業者の第一世代と呼ばれるコック達であり、いずれも現在のフランス料理界を代表するトップ・シェフになりました。

 また、イタリア料理界においても、1962年に本多征昭(「カプリチョーザ」創業者)、1965年に吉川敏明(「カピトリーノ」)、1968年に片岡護(「アルポルト」)と、現在のイタリア料理界の大御所達がイタリアに渡っています。

●ヨーロッパへの橋渡しをした「スイス・パパ」

 しかし、コネやツテもなく、自分の意志だけで海外への切符を手にすることは不可能に近く、チャンスをつかむことの出来た幸運なコックでも、行先を自由に選べるようなものではありませんでした。フランス料理を志しながら、修業先がオーストラリアやオランダであったりするのも、そうした背景があったからでした。

 そこに、そうした日本の状況を大きく変えた一人の外国人が登場します。それは、かつて横浜ホテルニューグランドで総料理長として活躍したサリー・ワイルでした。
 戦後スイスに帰国していたワイルは、1957年、ニューグランド時代の弟子達の招きによって来日し、約一ヶ月にもわたる日本一周ツアーの大歓待を受け、その期間の滞在費は全て弟子達の寄金によるものという、驚くほどのもてなしを受けました。
 それに感激したワイルは、その恩返しにと、本場で料理修行をしたくても思うように出来ない弟子達の話を受けて、自分が身元引受人となり、スイスのホテルやレストランで日本人コックを受け入れてくれるところを探して事前に話を取り付け、かつてニューグランドで自分の補佐をしていた荒田勇作に連絡をしたのでした。
 そして荒田は、「国際調理師技術協会」を結成し、この協会とワイルを通じて日本人コックの海外修行の道が大きく開けました。
 スイスはフランスの隣国で、一部はフランス語圏の地域もあるほど、フランスと近い国なので、まずはスイスに渡って修業し、そこで労働証明書を取得してからフランスに渡る、というルートを取ったのでした。
 そして、ワイルが斡旋した日本人コックの評判が非常に良かったため、国際調理師技術協会はヨーロッパ十六カ国司厨士連盟への加入を認められ、毎年定期的に日本人コックが渡欧出来るようになりました。

 50年末〜60年代にこのスイスルートから渡欧したコックには、中西鉄治(「横浜ロイヤルパークホテル」)、今井克宏(「三鞍の山荘」)、根岸規雄(「ホテルオークラ」)、堀田貞幸(「京都ホテル」)、緑川廣親(「京王プラザホテル」)、豊口忠男(「ホテル・メトロポリタン」)、快勝院孝士(「第一ホテル」)、など数多く、加藤信(「帝国ホテル」、「二葉製菓学校」)、井上旭(「シェ・イノ」)らも、はじめはスイスに渡ってワイルの世話を受けました。
 彼らも、海外修業の第一世代であり、後の日本のフランス料理界をリードする大シェフ達です。
 また、中には大庭巌(「ホテルオークラ」)のように、突然押し掛けたコックもいましたが、ワイルは「コマッタネ」と言いながら、そうしたコックにも職場を探しました。
 当時はまだヨーロッパに日本人は少なく、文化も言葉も違って孤独な生活を強いられるコック達にとって、何かあったときに助けてくれるワイルは「心のよりどころ」となり、そんなワイルのことを、コック達は親しみを込めて、“スイスパパ”と呼びました。

 なお、この交流は、1958年に結成される日本司厨士協会に国際調理師技術協会が吸収されたことで引き継がれ、「スイス調理師派遣団」として1994年まで継続されました。    

●全日本司厨士協会の結成

 第二次世界大戦によって、それまでコックの団体であった日本司厨士協同会や東厨会などは、自然解散状態になっていました。
 しかしそれも、戦後、アメリカ進駐軍の管理下に置かれていたホテルやレストランから米軍が引き上げていくと、コックの団体活動も再開し、コックも業界として社会的に認められる団体になっていこうという動きが生まれていきました。

 そこに、東京を拠点とする日本司厨士富友会会長の斎藤文次郎(「丸の内ホテル」)が先頭に立って、コックの全国統一団体の設立に向けて各地に呼びかけ、1956年七月に、名古屋の東海料飲技術連合会(会長・花木秀治)、関西・中国の日本司厨士連合会(会長・杉本甚之助)、四国司厨士協同会(会長・蓮井久雄)、九州の西日本司厨士協同会(会長・那須由夫)のメンバーが集まり、そこで「全日本司厨士連合協議会」の結成が決議されます。
 さらに翌年、ニューグランド系コックの頭領・荒田勇作が結成した国際調理師技術協会と日本司厨士富友会が合併し、そしてその翌年、1958年に、全ての団体が合併して完全な統一組織としての「全日本司厨士協会」が発足し(初代会長・斎藤文次郎)、その翌年には、社団法人の認可がされ、これが現在の公益社団法人全日本司厨士協会となりました。

 日本を代表するコックの組織となった全日本司厨士協会は、1960年にウィーンで開かれた世界司厨士協会連盟の総会に参加し、こうして日本の西洋料理界は、晴れて世界の料理界の一員として認められました。
 また、その総会に出席した会長の斎藤文次郎は、サリー・ワイルの案内を受けてスイスやドイツを回ってウィーンに行き、総会では「各国の皆さん、優秀な料理人が必要な時は、是非優秀な日本人料理人を使ってほしい」ということをワイルの通訳を介して発表すると、「サイトウ、ダイジョーブ、サイトウ、ダイジョーブ」という日本語の声が、会場のあちこちから上がったという逸話があります

  

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