日本の西洋料理の歴史

27.日本経済の高度成長と「本物」のフランス料理


●「マキシム・ド・パリ」の日本上陸

 1960年代に入ると、日本経済は高度成長期を迎え、好調な産業は飛躍的な伸びをし、国民の生活水準が劇的に上昇していくとともに、経済的に豊かになった人々の贅沢嗜好も高まります。
 そこに、日本の成長ぶりを象徴するかのようなレストラン、「マキシム・ド・パリ」が、1966年に開業します。この店は、当時パリでNo.1と言われていた三ツ星レストラン「マキシム・ド・パリ」の日本支店で、スポンサーは電機メーカーのソニーでした。
 大卒初任給が二万円程度だった当時に、二億四千万円もの総工費をかけたという、強大なソニーの資金力でオープンしたマキシムは、料理長に、当時フランスで二ツ星を取り、帰国後には三ツ星を獲得することになる名シェフ・ピエール・トロワグロを迎え、日本人料理長は、パリのマキシムで修行経験のある浅野和夫という強力なダブル・シェフ体制で、総支配人には、パリのマキシムからピエール・ガッシェを招き、日本人支配人には赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」支配人の秋山隆哉が就任しました。
 浅野は、パリの日本大使館で働いていた縁で、パリのマキシムで修業するという稀有な好機を掴みました。そしてそこで、ソーシエになるほどまでに腕を上げたことから、帰国して京都の「スター食堂」で料理長を務めていたところ、マキシム・ド・パリの日本支店の料理長には浅野を置いて他はないと熱望されて就任したのでした。 

 フランスの最前線で活躍しているシェフが腕をふるったこの店の料理は、まさに世界の最先端を行くフランス料理で、当時の日本人は見たことのない料理ばかりでした。戦争によって一時停滞し、アメリカナイズされ、むしろ劣化していたともいえる日本の西洋料理界にとって、このマキシム・ド・パリの出現は「黒船」のような存在でした。
 
 こうして、まるでパリの三ツ星レストランを日本で再現したような同店の誕生は、まさに“本物”のフランス料理店が戦後の日本に生まれた瞬間でした。

●ホテルオークラと小野正吉

 マキシムが銀座に生まれるのと同じ頃、「本場のフランス料理」を追い求め、日本の西洋料理界に大きな影響を与ることになる、特筆すべき存在があります。それは、1962年に開業したホテルオークラです。
 ホテルオークラを創設した大倉喜七郎は、帝国ホテル創設者の一人である大倉財閥の当主・大倉喜八郎の息子で、戦前は帝国ホテルの会長でした。しかし、戦後のGHQによる財閥解体と公職追放により帝国ホテルから追放され、ホテルがGHQの接収を解除されてからも、復帰することはホテルから拒絶されました。
 しかし、ホテルへの情熱が消えていなかった喜七郎は、帝国ホテル以上のホテルを新たに生み出そうと考え、そうして生まれたのがホテルオークラでした。そして、その社長には、商社マンとして約20年も世界を渡り歩いた経歴を持つ、野田岩次郎を招聘しました。
 二人は、オークラのコンセプトとして、世界に通用する「ベストA・C・S」を掲げ(A=設備、C=料理、S=サービス)、料理はオークラの重要な三本柱の一つとして特に力を入れました。そして、そのレベルを高める方法として、日本からコックを海外に送り込むより、本場のシェフを日本に呼んだほうがより多くのコックにとって勉強になると考え、マキシムが開業するより早い1965年に、フランスの五つ星ホテル「ジョルジュ・サンク」から、ジャン・プレイ、ロベール・カイユ、アンドレ・ルコントという、フランス料理界の前線で活躍している3人のコックを高額な報酬でオークラに招いたのでした。

 開業時のオークラは、帝国ホテル系の長峰六郎をトップとして、帝国系、ニューグランド系、日活ホテル系といった、様々な流派のコックが各々の流儀で仕事をしていましたが、その時調理部次長だった小野正吉は、当時の日本のフランス料理に疑問を持っていました。また、自分自身についても、ニューグランドでサリー・ワイルの料理を学んだとはいえ、「自分の料理は純フランス料理ではなく、スイス風フランス料理ではないか」とも考えていました。
 そこに、オークラに入社することになった小野は、社長命令により、欧米に渡って本場の料理を学ぶ機会を得ました。そして、フランスから本場のコックを呼ぶことを積極的に推進し、その本場の技術を用いて新しいオークラ流のレシピを確立し、バラバラだったオークラの厨房組織をまとめあげ、総料理長に就任してオークラの全盛時代を築き上げました。
 また、オークラが料理において別格の評価を受けていた理由の一つとしては、創業者が「日本一のホテル」を目指した信念にありました。まさに「他の追随を許さない」という言葉がふさわしく、特に食材の仕入れにおいては、常に他のホテルやレストランより上乗せした値段をつけることで、他のレストランでオークラより上質の食材が使われることをブロックしていたので、業界内では「オークラ・プライス」という言葉があったほどでした。開業時より、毎朝の食材の検品には必ず小野が立ち会って品質を確認し、少しでも気に入らないとその場で突き返し、少なくとも東京においては最高の食材をオークラが独占していたと言われ、マキシムですら、食材においてはオークラの後塵を拝せざるを得なかったと言われています。

 なお、オークラが最初に招いた三人のコックは、後に帝国ホテルにも招聘され、その中のアンドレ・ルコントは、1968年、六本木にフランス菓子店「ルコント」を開業し、戦後日本で初めてのフランス人によるフランス菓子店として話題を集め、日本にスイーツ・ブームを巻き起こすなど、日本の食文化に大きな影響を与えました。

●ホテル業界の追随

 マキシム・ド・パリがセンセーショナルなデビューを飾ると、ホテル業界も後を追うようにして、従来を超える最高級のレストランを作ろうと試みます。
 帝国ホテルは、1970年にフランス料理店「フォンテンブロー」を開業し、料理長にはオークラが日本に招いたフランス人コック、ロベール・カイユが就任し、パティシエには、フランスのパティスリー「ペシェ・ミニオン」でシェフを務めていた加藤信が就任しました。一方、ホテルオークラは、1973年に「ラ・ベル・エポック」を開業し、料理長にはフランス人コックのアレキサンダー・ムニエが就任します。また、プリンスホテルは、赤坂プリンスホテルに「ル・トリアノン」を開業し、料理長にはフランスの「ラセール」や「マキシム・ド・パリ」といった三ツ星レストランで修行した堀田貞幸が就任するなど、ホテル界においても、これまでのメイン・ダイニングとは別に、最新のフランス料理を知るコックを据えた、新しいレストランを開業する動きが生まれました。

 このように、1960年代後半から、これまで日本にあった戦前色の強い「西洋料理」とは一線を画す、「現代のフランス料理」が上陸していきます。そしてさらに、1970年に開催される大阪万国博覧会を契機に、日本の西洋料理界は全く新しい時代を迎えることとなります

  

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