日本の西洋料理の歴史

28.大阪万博と外食産業の夜明け


西洋文化を大衆に知らしめた大阪万博

 日本経済の高度成長に伴って、日本国民全体の所得も高まり、戦前に比べると西洋料理は一般の人々にも身近なものになっていました。
 ただそれでも、コロッケやカレーのような大衆化していた洋食とは違い、本格的な西洋料理となると一般人にとってはまだまだ馴染みが薄く、本格的なレストランで外食するということ自体が非日常な行為であり、ましてやマキシム・ド・パリや帝国ホテルのフォンテンブローのような超一流のレストランとなれば、一般庶民にとっては夢の御殿のような存在でした。

 そこに、西洋文化・そして西洋料理を、一般人にとってより身近に引き寄せることになったのが、1970年に開催された「日本万国博覧会」(大阪万博)です。この万博を境に、日本の食文化は一変します。

 大阪万博は世界77ヶ国が参加し、来場者数は6,421万人にものぼるという空前の大イベントとなり、フランス館やイタリア館、ソ連館などでは、本国から呼び寄せたスタッフによるレストランが開設され、それまで富裕層にしか馴染みのなかった本格的な西洋料理を、一般の人々にも身近に体験させることに大きく貢献しました。
 ちょうど日本では、1953年にテレビ放送が始まり、とりわけ1960年代は「パパは何でも知っている」をはじめとする海外ドラマの全盛時代で、多くの日本人が、テレビで映し出された欧米人の豊かな暮らしに羨望のまなざしを送っていました。そこに、大阪万博で開かれた数々の西洋館は、当時の日本人が「憧れ」として持っていた華やかな欧米生活を、身近に体験させたのでした。

●江頭匡一と外食産業の夜明け

 大阪万博で特筆すべきは、ロイヤル株式会社(現・ロイヤルホールディングス株式会社)が運営したアメリカ館のレストランです。大阪万博で実現された同社による合理的で効率の高いアメリカ式の運営は、当時の飲食業界に革命を起こしました。

 ロイヤルは、創業者の江頭匡一が、1951年に日本航空の営業が開始されるのと同時に、福岡空港で機内食の搭載と喫茶営業をしたことが事業のスタートでした。そして、レストラン・ベーカリー・アイスクリーム製造の3つの事業を柱に事業展開し、中でも1953年にューグランド出身の前川卯一を料理長に招いて開業したフランス料理店「ザ・ロイヤル」(現・「レストラン花の木」)は、新婚旅行で来日した大リーガーのジョー・ディマジオとマリリン・モンロー夫妻が三日連続で通ったほどで、九州一のレストランとしての評判を得ていました。
 しかし江頭は、当時アメリカで「外食王」と呼ばれていたハワード・ジョンソンの伝記を読んで感銘を受け、「飲食業を産業にする」こと目標にしていました。その頃の日本では、飲食業は「水商売」といわれ、特に西洋料理の技術は、職人の世界で徒弟制度的に伝えられる、極めて狭い世界でのみ存在する特殊技能でした。ロイヤルでも、はじめは店舗を増やすごとに一流のレストランからコックを引き抜くなどしていましたが、アメリカではハワード・ジョンソンが700店舗を超えるレストランを展開し、飲食業でも立派に産業として認められていることを知っていた江頭は、そうした個人商店的なレストランを運営するだけでは満足せず、日本でもレストラン経営を合理化・効率化し、水商売から脱皮して「産業」にしようと考えたのでした。

 そして江頭は、アメリカに倣い、技術と手間のかかる仕込みや一時調理は一か所で集中調理し、店舗では仕上げ調理をするだけという仕組みを作り、1962年には集中調理加工場(現在のセントラル・キッチン)を導入しました。そして1969年には、日本では例のない大規模なセントラルキッチンを建設し、特別な技術を持った職人を多く抱えずとも、高品質のものを大量調理出来る体制を作り上げ、同年、「ロイヤルホスト」の一号店を福岡の大名に開業します。(ただ、その時の店は今のようなファミリーレストランではなく、焼肉とハンバーグの店)

 そして、ロイヤルの最大の転機は、1970年の大阪万博でした。
 本来、各国館のレストランはその当事国が運営するものを、アメリカ館は、運営する予定だったハワード・ジョンソンが、「採算が合わない」として手を引こうとしたので、江頭は直接ハワード・ジョンソンに交渉し、ロイヤルが外国店扱いでハワード・ジョンソン社のコーヒーショップやケンタッキー・フライドチキン、ステーキハウスといった店舗の運営を請け負い、その指導スタッフをハワード・ジョンソン社から派遣してもらうことにしたのでした。
 福岡のセントラルキッチンで一次調理した料理を、冷凍車が約600kmの道のりをかけて万博会場まで毎日運ぶという、当時の日本の飲食業の常識からすると考えられない手法で、ロイヤル社内でも採算が取れるはずがないと猛反対されていましたが、その距離は、サンフランシスコからロサンゼルスまでの距離とほぼ同じでした。アメリカではそれくらいの距離でのビジネスモデルは珍しくないため、江頭は運営上の問題はないと考え、利益については、アメリカ式のフードビジネスを勉強する授業料と思えば赤字でもいいと割り切っていたのでした。
 結果、ロイヤルが運営したアメリカ館の飲食店では、その運営にあたって使用した従業員数は他国館の約半分程度であったにもかかわらず、大阪万博の食堂事業者で最大の売上と利益をあげるという大成功を収め、飲食業界を驚かせました。
 当時アメリカで隆盛を誇っていたレストランチェーンやファースフードチェーンには、江頭だけでなく日本の多くの企業が関心を寄せていたので、そこにロイヤルが万博で実現して成功させたことは、その可能性を狙っていた多くの企業に火をつけることになったのです。

 そうして万博が終わると、多くの企業が競うようにして飲食事業に乗り出し、雨後の竹の子の勢いで日本中に新しいレストランやファーストフード店が出現します。こうしたことから、万博を契機とする1970年は、日本における「外食産業の夜明けの年」と言われています

  

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