日本の西洋料理の歴史

29.外食ビジネス時代の到来


●ファミリーレストランの誕生と「すかいらーく」

 1970年の大阪万博でロイヤルが大成功を収めた後、日本での外食ビジネスが大いに花開きますが、その代表としてまず挙げられるのが、同年7月に開業したファミリーレストラン「スカイラーク」(後の「すかいらーく」)です。

 「すかいらーくグループ」は、今や外食企業としては世界最大級の規模を誇る企業ですが、はじまりは、東京の多摩郡、ひばりが丘団地に開いた小さな乾物屋がスタートでした。
 開業したのは、横川端、亮、竟、紀夫の、「横川四兄弟」。横川四兄弟は、1962年に「鰍アとぶき食品」を創業し、当初は飲食業ではなく、食品スーパーでした。しかし、はじめは好調だったものの、その頃から台頭してきたダイエーやイトーヨーカドーといった大手食品スーパーによって市場を完全に支配され、もはや個人事業では太刀打ち出来ない状況になってしまいました。
 そこで、スーパーに変わる新しいビジネスチャンスを模索している中、1969年に日本リテイリングセンターの主催で開催されたアメリカ研修に参加した彼らは、アメリカの外食産業の隆盛を目の当たりにします。特に、モータリゼーションによるロードサイド(郊外)型レストランの繁盛ぶりは、彼らに衝撃を与えました。(ちなみに、この時の海外研修には、先のロイヤルや、ホテルオークラ、ホテルニューオータニの経営陣も参加していた)

 「これだ」と思った彼らは、自分達でレストランを立ち上げることを決めます。そうして1970年7月、東京の国立に、「スカイラーク」一号店を開業します。飲食業としては素人ながらも、食品スーパーで培った食材調達ノウハウやサービス精神、価格戦略などが功を奏し、スカイラーク一号店は大成功を収めます。そして、ちょうど日本にも訪れたモータリゼーションの波に乗って、横川四兄弟は次々と店舗を増やし、1975年にはセントラルキッチンも建設しました。
 これが、現在日本中にある郊外型ファミリーレストランの誕生です。ファミリー向けのレストランとしては、百貨店内のレストランをはじめ先例はありましたが、これまでのものは繁華街にあるのが常識で、今日よく見られる、郊外に駐車場付きの一軒屋で建っている、典型的な「ファミレス」を日本で確立したのは、この横川四兄弟でした。

 また、「ファミリーレストラン」という言葉を日本に定着させたのも彼らでした。1973年当時は、彼等自身、すかいらーくの社内報でも「ファミリー型コーヒーショップ」と呼んでいましたが、同年それを「ファミリーレストラン」と呼ぶことに改め、新聞記者を通じてこの言葉を普及させることを彼らは仕掛け、それが今日に至っています。

●飲食チェーン店の勃興とファーストフード革命

 万博によって生まれた新しい西洋食文化の潮流は、レストランだけに留まりません。
 1970年には、三菱商事が、アメリカのファーストフードチェーン「ケンタッキー・フライドチキン」のフランチャイズ一号店を名古屋に出店します。店長は、後に日本ケンタッキーフランドチキン社の社長となる大河原毅でした。その翌年には、輸入雑貨商の藤田商会を経営していた藤田田(でん)が、「マクドナルド」の日本一号店を銀座に出店します。後に、日本最大のファーストフードチェーンの二巨頭となる外食企業の誕生です。
 そして同年12月には、ロイヤルが郊外型レストランとしての「ロイヤルホスト」を北九州の青山に出店、1972年には櫻田慧が「モスバーガー」一号店を東京の成増に開業、1973年には三菱商事が「シェーキーズ」一号店を赤坂に開業、1974年にはイトーヨーカドーが「デニーズ」一号店を横浜・上大岡に開業、1978年には大阪万博のイタリア館でイタリア大使館から副料理長として派遣されていた本多征昭がイタリアンの専門店「カプリチョーザ」を渋谷に開業(当時は6坪の小さな店)と、1970年代は、現在でも日本全国に展開している多くの飲食チェーン店の開業ラッシュの年となりました。

 これら動きの中で特筆すべきは、何といってもマクドナルドでした。
 日本のマクドナルドの創業者である藤田田(でん)は、東京大学在学中から輸入雑貨商の藤田商会を経営し、成功を収めていましたが、そこに、アメリカのマクドナルド社長のレイ・クロックが、日本でのマクドナルド展開を考えていたところ、この藤田と出会いました。
 貿易商で十分な成功を収めていた藤田は、はじめは「水商売同然の飲食」に興味はなく、ハンバーガーを食べても、それが特別美味しくて魅力のある商品とは感じませんでした。しかし、あくまで日本主導で、フランチャイザーであるアメリカ本社からの命令は一切受けないという、フランチャイズ契約としては前代未聞の契約を条件にして、藤田はレイ・クロックと合意しました。
 そうして日本マクドナルド株式会社を立ち上げた藤田は、「ハンバーガーをファッションにする」と標榜し、アメリカ本国のマクドナルドが郊外に出店していたのに対し、藤田はあえて銀座という日本最大の繁華街のど真ん中に一号店を出店するという作戦を取り、「ハンバーガーはモダンでファッショナブルなフード」というイメージを確立し、日本の食文化にファーストフード革命を起こしました。

 もっとも、これは最初からうまくいったわけではなく、開業一号店の銀座をはじめ、続いて代々木・大井町に開業した二号店・三号店ともに売上不振で、月を追うごとに赤字を累積していき、経営の実態は火の車でした。
 しかし藤田は、その内情を公表せず、マスコミには「絶好調」であると言い続け、広告代理店の博報堂と組んで徹底的なPR作戦を展開し、「ハンバーガーの味がわからない奴は時代遅れのチンパンジーだ」というような過激な発言まで用いて、新しいものや流行に敏感な若い世代を中心とする消費者の感性を巧みに煽り、ファンを増やしていきました。
 そして1972年10月、開業二年目にして、日商220万円の世界最高売上記録を達成するという大逆転劇を成し遂げ、藤田は日本中にハンバーガーのブームを作り出すことに成功しました。
  
 このように、「日本の外食産業の夜明け」と呼ばれる大阪万博を堺に、数多くの飲食店が開業するとともに、ファミリーレストラン、ファーストフードチェーンといった、これまでになかった新しい欧米式の食文化の波が日本に生まれ、日本人の食生活が大きく変わっていきました

 万博の成功はじめ、大手の企業によるチェーン店などが1970年代になって急激に花開いたのは、決して偶然の産物ではありません。その背景にあるのは、1968年に日本の国民総生産(GNP)が世界第二位になったことに象徴されるように、日本の劇的な経済成長があり、国民全体の所得と生活水準は戦前とは比べ物にならないほど高まっていたからです。
 1958年から内閣府がはじめた「国民生活に関する世論調査」によると、生活レベルを「中」以上と回答した数が1970年になると九割を超え、そこから「一億総中流」という言葉が生まれます。戦前の日本では富裕層のみのものであったらゆる娯楽が、日本人なら誰の手にも届くものとなり、それまでは贅沢品だった西洋食も、日本人の食生活において、ごく当たり前のものとなっていったのでした。
 明治維新の文明開化からちょうど100年。格差社会から脱皮し、日本全体の生活水準が底上げされ、
生活様式が本当の意味で近代化したのは、1970年代、すなわち昭和40年代〜昭和50年代からと言えるでしょう。

  

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