日本の西洋料理の歴史

30.海外修行者達の帰国とフレンチ・ブーム


●新しいフランス料理

 1970年代は、日本のフランス料理界においても大きな転機でもありました。
 フォンテンブローやラ・ベル・エポックのように、日本のフランス料理界の総本山とも言うべき一流ホテルが、次々と本格フランス料理店を開業したこともありますが、何より1960年代から海外修行に渡ったコック達が続々と帰国し、日本のホテルやレストランで活躍をはじめたからです。

 代表的なコックをあげると、福岡「花の木」・銀座「レカン」などを経て、恵比寿「ドゥ・ロアンヌ」や京橋「シェ・イノ」を開業した井上旭、六本木「オー・シュヴァル・ブラン」料理長の鎌田昭男、六本木「ロテュース」料理長の石鍋裕、有楽町「アピシウス」料理長の高橋徳男、井上の後任として銀座「レカン」料理長に就任した城悦男などなど、現代の日本を代表するスーパー・シェフ達が、帰国して名乗りを上げます。
 また、勝又登が西麻布に開業した「ビストロ・ラ・シテ」は、料理は一流でありながら店の敷居は高くなく、価格も手頃で気軽に利用出来るフランス料理店として大人気となり、東京に「ビストロ・ブーム」を巻き起こしました。
 
そして何より決定的だったのは、彼らのフランス料理は、これまでの日本にあったフランス料理とは全く違っていたことでした。彼らが海外で身に付けてきた料理は、当時フランスを席巻していた、「ヌーベル・キュイジーヌ」という、当時の日本ではまだ知られていない、全く新しいフランス料理の技法でした。

 これまでの日本のフランス料理が、決してフランス料理でなかったわけではありません。横浜居留地の外人ホテルを源流とする、外国人コックによる外国人客のための料理を受け継いだ日本の西洋料理は、紛れもなく本物の西洋料理でした。
 しかし、ホテル御三家を例にとると、帝国ホテルであれば、料理のベースは1920年代にフランスに渡った石渡文治郎が築き上げたエスコフィエの料理であったし、ホテルオークラの小野正吉も、1926年に来日したワイルから学んだ料理をベースとしていたし、ニューオータニの総料理長小林作太郎は、明治時代からの老舗・中央亭の出身でした。
 つまり、当時の日本の老舗ホテルやベテラン・シェフの料理は、戦前のフランス料理がベースになっていたのでした。

 一方、本国フランスでは料理が日々進化し、戦後の頃にはもうエスコフィエの料理は「時代遅れ」といわれるほど、料理は変化していました。
 しかし日本では、戦争による食糧難によって西洋料理そのものが一時中断し、終戦後ほとんどのホテルがGHQに接収され、アメリカ料理を中心に作るようになったため、むしろ西洋料理のアメリカ化という、全く違う方向へ進んでいたのでした。

※ここでの「ヌーベル・キュイジーヌ」は、フランスの三ツ星レストラン「ラ・ピラミッド」のシェフ、フェルナン・ポワンを代表として、1930年代頃からはじまり、その弟子のポール・ボキューズやトロワグロ兄弟らがそれを進化させて1960年代に本格的に幕開けした、広義における「新しい料理」の潮流を指します。ただ、メディアが「ヌーベル・キュイジーヌ」という言葉を流行させたのは1970年代以降であり、そうした狭義におけるヌーベル・キュイジーヌは、日本の懐石料理の技法なども取り入れた1970年代以降のムーブメントを指します。

●ヌーベル・キュイジーヌ

 こうした背景から、当時の日本のフランス料理は本場のフランスより何十年も遅れ、方向もズレていたと言えます。そこに最新のフランス料理をひっさげて帰ってきたコック達の料理は、非常に斬新で、かつ時代に適合した美味しさを備えていました。

 その時もたらされたヌーベル・キュイジーヌは、これまで日本人のコックが知っているフランス料理とは大きく異なるものでした。戦前に「最高のソース」として教えられてきたドミグラス・ソースは全く使用されず、代わりに、それまでほとんど使われたことのない「フォン・ド・ヴォー」が多用されます。ソースのリエ(とろみづけ)には必須だった小麦粉のルーは姿を消してコーンスターチが使われ、時間をかけてベシャメルソースを仕込むこともなく、白いソースは生クリームとバターで短時間に仕上げられます。
 かつて、居留地の外人コックや、外国船で修行したコックから学び、「これこそが本場の味」として信じていた日本のコック達にとって、海外修行者が持ち帰って来た新しいフランス料理は、もはや全く別の料理だったのです。それに、これまでの日本のレストランは、「フランス料理」と称しながらも、実際には高級な西洋料理全般の代名詞的な呼称に過ぎず、料理の実態としては、イギリス料理、イタリア料理など、雑多な国々の料理が入り混じっていました。
 そこにやってきた、海外帰国組のコック達の料理は、最新のフランス料理を体現し、そして何より「美味しい」という事実は動かしようがなく、こうした新時代のコック達が、日本の西洋料理界の話題の中心になっていきます。

 このヌーベル・キュイジーヌが、これまでのフランス料理よりも断然美味しかったのは、このスタイルがフランスで生まれた背景に、流通技術や調理機器の進化などがあり、時代の変化から必然的に生まれたものだったからです。
 従来のように、食材の鮮度の悪さを重厚なソースの味でカバーするような料理ではなく、素材を重視し、その持ち味を活かした、よりフレッシュで「軽い」味わいは、日本でも自然に受け入れられました。
 また、「本場で修行を積んだ」、という金看板も、高度成長期にあって富裕層が増加していく当時の日本の消費者に対する商業路線とかみ合い、新しい「フレンチ・ブーム」を巻き起こし、そうして広まった新しいスタイルの料理と共に、それまでのフランス料理や西洋料理は、古くさい料理とみなされるようになっていきました。

●西洋料理の洋食化

 コックの海外修行が盛んになり、帰国してきたコックによって新しい料理が普及するにつれて、新しい仕事をするコックと、古い仕事のコック達は、次第に別々の世界に棲み分けられるようになります。
 大ホテルや、流行店を作ろうと考えるオーナーが求めるのは、やはり新しい仕事の出来るコックでした。しかし、それで古くからある西洋料理が廃れていったかというと、必ずしもそうはなりませんでした。
 戦前の西洋料理は、すでに日本の食文化の中に深く根を下ろし、そのまま受け入れられたもの、また、日本人特有の「日本の洋食」として変化していったものなど、様々な形で日本の食文化に融合していたからです。
 イギリス料理のビーフシチューも、フランス料理のグラタンも、あるいは日本的にアレンジされたカツレツも、それまで「西洋料理」として幅広く括られていたものが、社会のグローバル化に伴い、「フランス料理」「イタリア料理」ときちんと呼び分けられて専門化・細分化されるようになります。そして、新しい料理によってメニューから姿を消した古いフランス料理や、日本人にとって馴染み深くなりすぎた西洋料理は、時には日本的な「洋食」と呼ばれ、それだけを扱う店はいわゆる「洋食屋」として棲み分けられ、日本の西洋料理界を再構成していくことになります。

 横浜に居留地があった時代から何人もの外人コックについて料理を学んだ、まさに「戦前派」の代表といえる荒田勇作は、1960年からは霞ヶ関飯野ビル「キャッスル」の総料理長としてクラシックな料理を提供し、1978年に亡くなるまで現役で活躍し、麹町「夏目亭」の夏目安彦、代官山「シェ・アズマ」の東敬司をはじめとして、現在でもその名の知れた数多くの名コックを輩出します。
 
また、俳優の青木湯之助が、戦後の焼け野原に開いた汁粉屋に、日光金谷ホテルや銀座のアラスカなどで腕を磨き、後に日本司厨士協会第二代会長となる藤咲信次を招いてレストランに転換した日本橋「紅花」は、あえて既存の料理にこだわらない、日本人に合った新しい洋食を提供して人気を博し、ニューヨークに進出するほどになります。
 また、ニューグランド出身の水口多喜男は、1975年、五十八歳にして東麻布に「仏蘭西料理ピアジェ」を開業し、その頃の東京ではフランス帰りの次世代コックが数多く活躍している最中でしたが、文藝春秋の『東京いい店・うまい店』に毎年掲載されるほどの評判店となり、銀座に姉妹店「シャペロンルージュ」を開業し、伊勢丹や三越、松屋、東急、西武といった百貨店のデパ地下に、惣菜店「水口多喜男の店」を開くほどにまでになりました。
 このように、戦前から活躍していたコックの西洋料理も、クラシック・フレンチとして、または新しい創意工夫が加えられた独自の洋食として、あるいは時代に適合して洗練された西洋料理となって、引き続き日本の洋食文化を担っていきました。

 1970年代は、戦前派の西洋料理と戦後派の西洋料理が世代交代しながらも、同時に西洋風洋食と日本風洋食のジャンルが分化し、日本の洋食文化として定着していく、転換期となる時代だったと言えます

  

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