日本の西洋料理の歴史

31.西洋料理界の発展を支えた人々


●舞台裏の功労者

 日本の西洋料理史において、その発展を牽引してきたのは、やはりコックやマネージャーをはじめとするスタッフが主役ですが、そうした従業員やそのオーナーといった関係者とは全く違う形で、その発展に大きく関わり、支えた人々もいます。
 その中でも、西洋料理史にその名を刻むべき、多大な貢献をした存在として、山本直文・柴田良太・辻静雄の三人の名前を挙げるべきでしょう。彼らがいなければ、日本の西洋料理界の発展はもっと遅れたに違いなく、この三人は、西洋料理界の「恩人」と呼べる存在です。

●フランス語の師・山本直文

 山本直文(なおよし)は、1890年(明治二十三年)生まれのフランス文学者で、東京帝国大学を出て宮内省の在外研究員としてフランスに渡り、1921年(大正十年)からは学習院大の教授を務めていました。山本は、生来の食べ物好きであったことから、フランス料理のメニューを理解したいと思ったことをきっかけに、フランスの料理書を研究するようになり、当時の日本ではおそらく唯一ともいえる、フランス料理の専門知識に精通した学者として、1933年(昭和八年)に日本司厨士協同会の顧問に就任しました。
 山本は、フランスの料理関係の本を翻訳し、それまで日本には存在しなかったフランス料理の用語辞典を作り、コックやレストラン関係者のためのフランス語教室を開いて指導するなどして、今日のように海外の情報を得ることも調べることも難しかった時代に、フランス料理の知識面を長きにわたってバックアップした貴重な存在でした。
 また、「直文会」というグループを結成し、これには高名な美食家をはじめ、業界きっての大コックから若手の有望株のコックまで、料理を研究する者であれば幅広く参加して料理店を食べ歩き、こうした活動でも料理界を啓蒙しました。
 戦後は日本人コックの海外修行にも大きく力添えをし、山本の紹介によってスイスのワイルの下へ多くのコックが送られました。
 フランス料理という、異国の文化の「言葉の壁」によって学ぶことの難しかった時代に、山本は西洋料理界全体の影の指導者であったともいえ、ある意味、日本中の全てのコックやホテルの支配人の「師」であったと言っても過言ではありません。

●「柴田書店」創業者・柴田良太

 柴田良太は、1921年(大正十年)、九州に書店の息子として生まれましたが、食の専門出版社として現在も有名な「柴田書店」を創業した人物です。
 創業当時の柴田書店は、食だけを専門にしていたわけではありませんでしたが、1953年に『調理のための食品成分表』(松元文子著)を刊行してヒットしたことをきっかけに食の専門出版社として舵を切ります。そして1955年に、東京會舘や華族会館の料理長を務めた深沢侑史と『西洋料理』を出版し、この本には、フランス料理の細かな分量や手順がこれまでにないほど詳解された画期的な料理書として話題になり、料理専門の出版社としての名声を高めました。
 そして1961年に『月刊食堂』、1963年に『月刊ホテル旅館』、1966年に『月刊専門料理』と、今もなお業界の専門誌として、業界内では知らない者はいないと言える雑誌を刊行します。
 柴田は、自身海外に赴いてホテル・レストラン業界の発展を目の当たりにし、日本も必ずそうした時代が来ることを確信し、それらの紙面を通じてその最新情報や動向を発信し、また食に関する情報や技術を世界から日本国内まで集め、多くの良書を出版しました。
 残念ながら、事故により四十一歳の若さで早逝してしまいましたが、今日のように情報化社会でなかった時代、柴田書店は日本中の外食・ホテル業界の牽引役を果たしてきたと言え、それを生み出した柴田は、戦後の日本の西洋料理界を発展させた最大の功労者の一人だったと言えます。

●料理界の入り口を広げた辻静雄

 辻静雄は、1933年(昭和八年)に東京で生まれ、早稲田大学を卒業し、新聞記者となりましたが、1957年に料理学校の校長の娘と結婚したことから、自身も料理学校を経営する道を歩み、1960年、大阪に辻調理師学校を開校します。
 ただ、辻の開いた学校は、これまで日本にあった料理学校とは大きく違いました。それは、これまでの料理学校はどこも、生活にゆとりのある主婦や、金持ちのお嬢様などが家庭料理を学ぶために通うものでしたが、辻調調理師学校は、その名が示す通り、「調理師」を目指す人のための専門学校だったことです。現在では、コックやパティシエになるための料理や製菓の専門学校は多くありますが、当時は、職業として料理や製菓を覚えるには、店舗やホテルなどに入って修行するのが当たり前で、学校で教わるものではありませんでした。そこに、料理人を目指す者のための学校を開いたことは、画期的なことでした。
 辻自身は料理の素人でしたが、大学では仏文を専攻していたので、自分でもフランスの料理書の原書を読みはじめました。すると、フランスの料理書に書かれている料理と、当時の日本でよく見かけるフランス料理には違いがあることに気付きました。そこで辻は、料理研究のため海外に渡って本場の料理を確認し、料理書を集め、フランスの一流コックと親交を結び、そうして最新の本場の情報を日本に持ち帰ってきたのでした。
 そして、1969年からは教員のフランス研修を開始し、1972年からは、ポール・ボキューズをはじめとするフランスの最前線で活躍する一流シェフを招いて公開講座を開き、自身も多くの料理関係の書籍を執筆するなどして、フランスの最新の調理技術を日本に紹介することに尽力しました。
 このように、それまでは前時代的な徒弟制度の中に身を投じなければ立ち入ることが出来なかったコックの世界の新しい入り口を作ったことで、料理界の間口を大きく広げ、また、数多くの著書によって最新の調理技術を広く日本に知らしめたことは、料理界に留まらず、日本の食文化そのものに計り知れない影響を与えました

  

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