日本の西洋料理の歴史

32.モータリゼーションとロードサイドレストランの隆盛


●モータリゼーションの到来

 日本では、1960年代中頃からモータリゼーションの波が到来し、それによって、これまでになかった新しい外食文化が生まれました。
 かつてアメリカでも同様のことがあったように、日本でも国民全体の所得の上昇によって一般の人々が自家用車で自由に移動出来るようになったことは、人々の生活スタイルを変えただけでなく、それによって可能になった新しい「外食」のスタイルによって、食文化をも大きく変化・発展させました。

 自動車が高価だった時代は、飲食店のような個人向けの施設は鉄道の駅前周辺に集中し、郊外に飲食店はほとんどありませんでした。また、行楽地や観光地にしても、鉄道の駅周辺以外に飲食店はほとんど存在しませんでした。
 それが、1964年頃から自動車の個人所有が急増し、1965年に名神高速道路が開通するなど道路の整備も進み、1966年には早くも日本での自動車の生産台数がアメリカ・ドイツに次いで世界三位になるほどまで伸長し、1969年には東名高速道路が開通し、1970年代になるともう自動車は「一家に一台」と言われる時代になります。
 そうして、人々が自家用車を駆って日本国内の津々浦々まで足を伸ばすようになると、それに伴って急速に発展したのが、いわゆる「ファミリーレストラン」に代表される、主要幹線道路沿いに作られたロードサイドレストランです。

 また、それまでの駅前立地のような都市部(アーバンエリア)となると、土地代も高くスペースも限られているため、大型の店舗はそれほど多くありませんでした。それが、自家用車によって遠方にも手軽に移動出来るようになると、郊外(サバーバンエリア)にも需要と商機が生まれます。1970年代の日本は、郊外や地方となると見渡す限りの畑や空き地ばかりだったので、100席を超える大型の店で、広い駐車場を確保することも可能でした。
 そうした背景から、モータリゼーションの到来は、飲食店に新しいビジネスモデルを生み出すことになります。

●ドライブインと「あさくま」

 自動車の利用者をターゲットにした郊外型飲食店の先駆けは、ファミリーレストランよりも前に、ドライブ・インがあります。
 日本で最初のドライブ・インは、1961年に開業した小田原トヨペットサービスセンターと言われていますが、モータリゼーションが到来する以前から、ドライブ・インのビジネススタイルに着目して成功させた人物として、株式会社あさくまの創業者・近藤誠司のような例もあります。

 1932年、愛知の郊外にある、戦前から続く料理旅館「朝熊」の一人息子として生まれた近藤は、若くしてその経営を引き継ぎましたが、古いスタイルの料理旅館のままでは先はないと考え、1962年に、一階を洋食レストラン、二階を旅館にした「ドライバーコーナー・キッチンあさくま」として改装し、リニューアルスタートします。
 当時はまだ東名高速の全面開通もしておらず、本格的なモータリゼーションは到来していませんでしたが、そこで提供していたステーキが外国人客から褒められたことをきっかけに、ステーキを軸にしたメニューにすることに決め、仕入れを見直し、商品を絞り込んで安価で提供したところ評判になり、「安くビフテキを食べられる店」として、近隣のドライバーが車でわざわざ食べにくる繁盛店となりました。
 
その後、人気に乗じて店舗を増やし、やがてモータリゼーションの波とともに「ステーキのあさくま」は隆盛を極め、郊外を中心に140店舗も店舗展開する日本最大のステーキ・チェーンレストランとなりましたが、こうした店舗展開が可能になったのは、自家用車の普及により、日本人の生活スタイルが大きく変わったからでした。

●ファミリーレストラン全盛時代

 高速道路が開通し、マイカー所有が増加していても、そうした自動車の利用者をターゲットにした飲食店のビジネスモデルは、1960年代の日本ではまだ確立していませんでした。
 しかし、1920年代にモータリゼーションが到来していたアメリカでは、1930年代頃にはもう、数多くのロードサイドレストランが生まれて隆盛を極めていたことは、海外事情に明るい日本人であれば周知のことでした。

 そして1970年に、ロイヤルが大阪万博でアメリカン・スタイルのレストランを成功させると、それを引き金に、日本でアメリカのレストランやファーストフードをモデルにした、新しいスタイルの飲食店が次々と誕生することになります。
 その第一号が、1970年に開業した横川四兄弟による「スカイラーク」で、次いでロイヤルの「ロイヤルホスト」が1971年、イトーヨーカードーの「デニーズ」が1974年に開業し、この三社は、日本における郊外型レストランの先駆者として、「ファミリーレストラン御三家」と呼ばれるようになります。
 
これらのファミリーレストランのモデルとなったのは、アメリカの「コーヒーショップ」と呼ばれる業態でした。コーヒーショップとは、単にコーヒーを売る店というわけではなく、自動車の利用者をターゲットに、早朝はモーニングセットを、昼は軽いランチメニューを、そして夜はきちんとしたディナーメニューを用意し、さらに深夜営業もしているのが特徴でした。

 また、これらのファミリーレストランが、従来の日本のレストランと根本的に違っていたのは、単に郊外にあるからではなく、多店舗展開を狙った、チェーン・レストランであったことです。
 旧来のレストランの運営手法では、質の高い料理を提供するには、一店一店に熟練したコックを置くことが必要でした。しかし、アメリカのチェーン理論に基づき、セントラルキッチンで一時調理をまとめて行い、各店に配送して店舗では仕上げるだけ、という仕組みを構築することで、熟練コックがいなくとも、短期間で店舗展開することを可能にしたのでした。
 
1972年に刊行された『日本の外食産業』(日本経済新聞社)の中で、当時のロイヤルのレストラン営業部長・薦野寧は、「レストランが三十店舗あるとすれば、これまでは“大佐”級のコックが三十人必要だった。ところが、CK化した場合、CKに“大将”級の大コックを一人雇えば、各店舗には“少尉”級のコックを雇用するだけで間に合う」と述べています。
 サービスにおいても、アメリカ方式で全ての作業を徹底的に細かく定めてマニュアル化することにより、経験の浅いアルバイトでも、短期間でレストランらしい風格のある接客をすることを可能にしました。
 今では機械的で味気ないサービスの代名詞として揶揄されることの多い「マニュアル」ですが、まだサービス業が社会の中で確立しておらず、高級店でなければレストランらしいサービスというものは受けられず、大衆店では街の食堂的サービスしかなかった当時にあって、マニュアルを用いることで、大衆価格の店でありながら、礼儀正しいサービスを受けられるのは画期的なことでした。
 こうした仕組みがあったからこそ、洋食を手頃な価格で提供し、短期間での全国展開が可能になったのであり、日本の食文化に大きな影響力を持ちえたのでした。

 また、当時はまだ「レストラン」というものに対して贅沢感があり、カーペットを引いたファミリーレストランに入るのに靴を脱いで入ろうとした客がいたという逸話もあるほど、一般庶民にとってはレストランで食事をすることが当たり前でありませんでした。そうした時代にあって、手の届く値段で利用することが出来、しかも広い駐車場と客席を備えていたファミリーレストランは、当時のニューファミリーにとって、今までにない「非日常」を味わえる娯楽施設であり、現代でのアミューズメントパークのような存在でした。
 ファミリーレストランは、家庭ではあまり味わえない洋食を囲んで、豊かな気持ちで家族団欒するという、これまでは富裕層でなければ味わえなかった食の文化的な楽しみ方を、多くの一般家庭に広く知らしめる役割を果たしたのでした。

 また、今日のように、インターネットで簡単に全国津々浦々の飲食店情報が手に入る時代ではなかった当時は、遠い旅先で飲食店を探すのは必ずしも容易ではなく、見つけたとしても、地方の得体のしれない個人店に入るのは、ある意味「冒険」に近いものがありました。そこに、見慣れたチェーンレストランの看板は、大人から子供まで、一定の品質のものを手頃な値段で確実に食事できるという、「安心」の目印であったことも、チェーンレストランがもてはやされる大きな理由の一つでした。

 そうして、山口県の自動車ディーラー・卜部グループが開業した「サンデーサン」(1971年)、当時大学生だった正垣泰彦が洋食店を転換して開業した「サイゼリヤ」(1973年)、ダイエーがアメリカのフランチャイズで開業した「ビッグボーイ」(1977年)、大阪で寿司店を運営していた日本フードサービス株式会社が開業した「フレンドリー」(1977年)、セゾングループが開業した「CASA」(1978年)、大分の株式会社焼肉園が開業した「ジョイフル」(1979年)、すかいらーくグループの「ジョナサン」(1980年)、株式会社カスミストアーがアメリカのフランチャイズで開業した「COCO’s」(1980年)など、全国各地に様々なファミリーレストランが誕生し、1970年代から1980年代にかけて、日本の飲食業界はファミリーレストランの全盛時代を迎えました

  

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