西洋料理の歴史

11.技術革新とヌーベル・キュイジーヌ


●ポワンの弟子達

 フェルナン・ポワンによって切り拓かれた新しいフランス料理は、その弟子達によってさらに進化していきました。

 その代表的存在が、ポール・ボキューズ(1926年〜)、トロワグロ兄弟(1926年〜1983年,1928年〜)、クロード・ペロー(1931年〜)、アラン・シャペル(1937年〜1990年)などです。

 彼らはポワンの弟子であり、1950年代以降にそれぞれミシュランの三つ星を獲得し、世界的にその名を轟かせることになる大シェフ達です。

 中でも特筆すべきはポール・ボキューズです。
 ボキューズはポワンの技法をさらに発展させ、「料理人は、料理書にある料理を作るのではなく、毎朝市場に足を運んで自分の目で気に入った素材を選び、そこから料理を考えるべき」と提唱し、「エスコフィエは終わった」とまで言い放ちました。

 市場で素材を探すことくらい、今では当たり前のように感じられるかも知れませんが、当時は決して当たり前のことではなく、技術革新によって、第二次世界大戦以降にようやく物理的環境が整ったから言えるようになったことでもあります。

 二十世紀はじめ頃の流通・保存技術というのは、今からは想像もつかないくらい劣悪なもので、内地にあっては魚介類などは、ろくに冷やされずに2日も3日もかけて運ばれて来るような状況で、宮廷の晩餐で使用する予定の魚が到着しなかったために自殺したシェフがいたくらいでした。

 自家用車なども当然なかった時代、毎朝シェフが市場に行くという自体が物理的に困難だったので、それまでのフランス料理界では、市場で食材を探すということは当たり前ではなかったのです。

 そもそも古典料理のソースが重たいのは、鮮度の良い食材が入手困難だったため、香りをハーブやスパイスで補い、バターやクリームをたっぷり使って、濃厚なソースの味を楽しむことに重きを置かれたからとも言われています。

 そこにポワンが、素材重視の料理の先鞭をつけましたが、ボキューズの時代に至っては、もう誰もが自家用車を持つ時代になり、魚も冷蔵車で数時間で届く時代になっていました。

 そこでボキューズは、ポワンの思想をさらに発展させ、小麦粉どころかフォン・ド・ヴォーやフュメ・ド・ポワソンも使わず、クリームやバターを使う量も減らし、「軽く」をキーワードに、素材自身の風味や味わいを楽しむことに重きを置いた、新感覚の料理を作りました。

 こうした料理がもてはやされたのは、社会風俗・文化の変化の影響も大きくあります。

 フランス革命によって市民政治時代に移行してからも、十九世紀から二十世紀はじめ頃までの間は、豊かさの象徴といえば、かつての宮廷時代のゴシック・バロック様式に見られるような、やや装飾過多な華やかさに憧れがあり、社交会におけるファッションも、現代の感覚からすればゴテゴテした服装で、体型も貧しく見える痩せ型よりも、ややぽってりしたくらいの太めが優美で、それが豊かさの証とされた時代でした。

 それが第二次世界大戦後、モダニズムの時代に移行すると、人々はスタイリッシュなものを目指すようになり、服装はよりシンプルに、スタイルもよりスマートになることが時代の要求となりました。

 そうなると、バターやクリームで塗り固められた重厚な料理ではなく、美味しく・美しく、より「軽い」料理が好まれるようになっていました。

 そこに、ボキューズをはじめとするポワンの弟子達の新しい「軽い」スタイルの料理は、まさに時代の要求に合致したものであり、ポワンに続くヌーベル・キュイジーヌ(新料理)の次世代の旗手として、フランス料理界をリードする存在となりました。

●フランスにおけるクラシック

 ただ、彼らの登場で全てがポワン流一色になったわけではありません。ボキューズやペローの店は、新料理の店として名声を高めていましたが、一方「マキシム」や「タイユバン」、「トゥールダルジャン」といった歴史のある店では、伝統的なスタイルを継承した料理を提供して三ツ星を維持していたので、当時のフランス料理界では、伝統的な料理、新しい料理の、どちらも支持されていました。

 また、ボキューズらの師であるポワンも、決してエスコフィエ(=古典)を否定したわけではなく、むしろエスコフィエが行った改革精神を受け継いだからこその改革であると自身は述べています。

 むしろ、ヌーベル・キュイジーヌの流行に伴って、エスコフィエの技法が軽んじられていくことに危機感を覚え、原点回帰も提唱していました。

 それは、エスコフィエという個人のシェフへの回帰をというより、フランスが何百年と築き上げてきた伝統ある料理が失われることを恐れたからだと言われています。

●「新しい料理」と日本

 ポワンの弟子達による新料理がフランス料理界を席巻したのは1960年代からであり、この時期は、ちょうど日本のコック達が料理修業のために渡欧をはじめた、ヨーロッパ修業第一世代の時期です。

 「アピシウス」「パ・マル」の高橋徳男氏や「シェ・イノ」の井上旭氏はトロワグロ兄弟の「トロワグロ」で修業し、「コートドール」の斉須政雄氏や「クイーン・アリス」の石鍋裕氏は、クロード・ペローの「ヴィヴァロワ」で修業をしました。

 彼らが帰国して日本で活躍する1970年代から、日本においてもポワンの流れを汲む新しいフランス料理が認知されるようになりました。
 また、大阪の辻調理師専門学校の招きにより、1972年にポール・ボキューズが初来日し、最新の調理技法の講習会を行うと、そこには当時のホテルオークラの総料理長・小野正吉氏が参加するなど、その「新料理」は、日本中から注目されていました。

 日本の西洋料理界は、第二次世界大戦とその敗戦によって長らく進化が断絶し、戦後もしばらくは前時代的な料理のまま停滞していたので、こうした最新のフランス料理が日本の西洋料理界に与えた影響は「黒船」のように衝撃的でしたが、ボキューズと日本との出会いは、フランスの料理界にも逆に影響を与えることになります。

 


←Back       Next→

 →TOPへ