西洋料理の歴史 4.大衆料理とレストランのはじまり
●同職ギルドと街場の食堂宮廷料理が進歩する一方、フランス庶民の間で料理が発展しにくかった理由として、封建時代は貴族と庶民の生活格差が激しかったことに加え、「ギルド」の存在もありました。
中世期のフランスの一般市民には完全な自由は存在せず、商人には「商人ギルド」が、手工業者には「同職ギルド」が存在し、そのギルドのルールに従って仕事をしなければなりませんでした。
ギルドはお互いの利権を守るために作られたものなので、経済活動においては一定の意味を持ちましたが、文化の発展という点においてはそれを阻害する原因にもなりました。
何故なら、その商人や職人が何を扱うかによって職業が細かく明確に区分され、それぞれが自分の領域を独占し、お互いに他の領域を一切侵してはならなかったからです。
食の世界では、肉を焼く者は「ロティスール」、豚肉を売る者は「シャルキュティエ」、鶏肉を売る者は「プーライエ」、内臓肉を扱うのは「トリピエ」、ソースを作る者は「ソーシエ」、惣菜やラグー(煮込み料理)を売る者は「トレトゥール」などと、かなり細かく分けられ、例えば、豚肉業者のシャルキュティエは、プーライエの領分である鶏肉を売ってはいけなかったのです。
そのため、中世期の街にも居酒屋や食堂はありましたが、例えば、煮込み料理を扱うトレトゥールのギルドに所属する店では、店で肉を焼いてはいけないので、焼肉を売りたければロティスールから仕入れなければならず、プーライエの店で豚肉料理を出したければ、シャルキュティエから仕入れて売らなければならず、自由に料理を作って売るという、現代ではごく当たり前のこと自体が出来ませんでした。
このような面倒なルールがギルド制度によって存在し、それぞれにギルドに所属する職人は、「一芸に特化した職人」、というと聞こえは良いですが、一芸しか習得することが許されなかったのが、ギルド社会における職人だったのです。
ただ、そんなことだから、ギルド間では争いや訴訟が絶えなかったそうです。
こうした背景から、中世期の民間では技術交流や発展は鈍く、少なくとも食の世界においては、現在のような多彩なメニューの食堂を営業することが難しく、そのため街の料理人には、多彩な技術を持った料理人がいませんでした。それに対し、宮廷・貴族お抱えの料理人というのは、店を構えているわけではないので、そうしたギルドのしがらみとは関係なく、パトロンの要望に応じて自由に食材を扱い調理することが出来ました。
先述の十四世紀に活躍したタイユヴァンも王家の料理番であり、現存する世界最古のフレンチ・レストランとして知られるトゥール・ダルジャンは、1582年に旅籠屋として営業していたところ、狩猟に来ていたフランス国王アンリ三世に気に入られ、貴族の社交の場として利用されるようなった特別な存在であり、近代までのフランスの偉大な料理人は、全て王侯貴族達と関りを持った料理人でした。
このような背景もあって、中世期のフランスでは優秀な料理人の数が少なく、十八世紀頃までのヨーロッパの有名ホテルのシェフは、イタリア人やスイス人の方が多かったと言われています。
イタリア人やスイス人に優れた料理人が多かった理由としては、イタリアは先述したように料理の先進国であったこと、スイスについては、国土の大半が山岳地帯で産業に乏しかったため、中世期のスイスの主要な産業は傭兵だったほど、世界を渡り歩いて稼ぐというのがごく当たり前の職業観だったので、優秀な渡りの職業料理人が多かったからと言われています。
●レストランの元祖
しかし、こうしたフランスのギルド社会も、十八世紀に大きな変化が起きます。
フランス革命も近い1765年、ブーランジェという人物が、パリに一件の居酒屋を開きました。
そこでは、肉や野菜を煮込んだブイヨンを、「元気を回復させる」という意味のラテン語である「レストラン」と名付けて売り出し、羊の足をホワイトソースで煮込んで出したりしていました。しかし、ブーランジェはギルドに加入していなかったため、当然ラグー(煮込み料理)の権利を持つトレトゥールのギルドから訴えられ裁判になりました。
ところが意外にも、裁判の結果、ブーランジェの「これはレストランという新しい料理で煮込み料理ではない」という主張が勝利し、ギルドの訴え出を退けて営業を継続することが出来たのです。
この裁判の結果は周囲に広まり、それからは「レストラン」と称して好き勝手に料理を提供する店が次第に現れるようになりました。
これが現在のレストランのはじまりとされています。
そして、1789年のフランス革命によって王政が倒され、一般市民に労働の自由が認められると、ギルドは解体され、それ以降「レストラン」という名称は、自由に料理を提供する店の呼び名として定着していきました。