西洋料理の歴史

5.フランス革命とアントナン・カレーム


●宮廷料理人の失業とレストランの勃興

 フランスの食文化を大きく変える一大事件は、1789年にはじまるフランス革命です。

 ブーランジェによって「レストラン」が誕生したといっても、大衆料理と宮廷料理とでは、内容も技術も天と地ほどの差がありましたし、そもそも封建時代の一般庶民は貧しかったので、高価な素材を使ったり手の込んだ料理自体が、庶民には必要とされていなかったからでもあります。

 それが、フランス革命によって王政が崩壊し、貴族達が権力の座からの失墜すると、それに伴って貴族たちのお抱えコックも失業してしまいました。

 そうして、宮廷での仕事を失ったコックたちは、ヨーロッパ各国の有名ホテルやリゾートホテルに引き抜かれたり、大富豪や他国の貴族に雇われるなどして職を得ていきましたが、職を得られなかったコックは、自身の生活のために街場で次々とレストランを開きました。

 市民革命により、それまで虐げられていた庶民は、生まれや身分に関係なく、力さえあれば富と地位を自分の手でつかむことが出来るようになっていたので、これまで王侯貴族のためだけのものでしかなかった宮廷フランス料理は、こうして一般人の食生活の中にも取り込まれていくことになります。

 これが、フランスにおけるレストラン時代の幕開けになります。

 ここから、それまで一部の富裕層しか接することのなかった調理技術や料理が、一般の市民層に広がり、味わうことが出来るようになり、フランスだけではなく、ヨーロッパ全体の食文化が新しい時代を迎えます。

 この時からフランスの料理人達は、自分の好きなようにメニューを組んで腕を揮うようになり、街のレストランと食文化が発展していく原動力になっていきます。

 もちろんこれは食文化だけでなく、政治活動、経済活動、芸術文化にいたるまで、それまで特権階級で独占されていたものが市民社会に広まり、またその市民革命の気運の波が世界各国にまで及んだという意味において、フランス革命は西洋史自体の大きな転換期をもたらしたと言えます。

●大料理人・アントナン・カレーム

 そしてこの時代、フランス料理史上、最も偉大なシェフの一人に数えられる料理人が登場します。

 その名は、マリー・アントナン・カレーム(1784年〜1833年)。
 正確な生い立ちはわからず、とにかく非常に貧しい生まれで、十歳の頃には食堂で馬車馬のように働いていたそうです。

 カレームは十六歳になると、フランス政府にも仕出しをしているバイイというお菓子屋で働くことになりました。
 そこでカレームは、料理やお菓子の研究を行って徹底的に料理を極めようとしました。中でも、料理やお菓子の盛り付けの参考にするために国立図書館に通って建築のデッサンや建築学を学び、その建築技法を活かしたカレームの装飾の見事さは、顧客の間で話題となっていきました。

 やがて、その非凡な才能と実力は店の顧客である政府の高官達の知るところとなり、ついには「外交の天才」と呼ばれた、当時のフランス外相・タレーランの目に止まります。

 そして、1814年に開かれたウィーン会議において、カレームはタレーランの伴を命じられました。
 ウィーン会議は、ナポレオン政権後に混乱したヨーロッパの秩序を再建するために、ヨーロッパの主要国が集って開催した大会議ですが、「会議は踊れども進まず」という有名な言葉で喩えられるように、領土問題を巡ってなかなか収拾がつきませんでした。

 しかし、このウィーン会議においてフランスは、タレーランの巧みな外交手腕によって革命以前の国益を維持することに成功しましたが、その成功の背景にはカレームの活躍が大きかったと言われています。

 タレーランはウィーン会議の間、各国の要人を招いて連日宴会を開き、そこで振る舞われたカレームの壮麗なフランス料理に各国の代表者達は完全に酔いしれ、カレームの料理を目当てに連日連夜タレーランの主催する宴会に通い詰めるほどになり、その接待攻撃がフランスの交渉を有利に進めたと言われています。

 現在の政治においても接待と美食は欠かせませんが、タレーランは、カレームという天才職人を起用したことで各国の要人を魅了し、国家レベルで接待を成功させた事例といえます。

 とにかく、当時はまだ国際的な知名度が高くなかったフランス料理は、このウィーン会議によってその素晴らしさが世界的に有名になり、同時に料理人・カレームの名も、世界的な名声を得ることになりました。

●カレームの料理とその功績

 カレームの料理は、とにかく「豪華絢爛」という言葉に尽きます。

 当時の料理のスタイルは、宴会料理が中心であったため、料理を大皿に盛り付け、テーブルいっぱいに料理を並べて提供することが通例でした。

 そこにカレームは、建築から学んだデザイン力を料理の盛り付けに活かし、華美な装飾を凝らした料理をテーブルにずらりと並べるという、贅を極めた豪華さと壮麗さがカレームの料理の特徴でした。

 カレームは、そうした料理の創作姿勢と構造美から、「料理の建築家」とも呼ばれました。

 こうした装飾華美な手法は、特に宴会料理において現在でも残っており、日本で明治期に流入した西洋料理にはこうしたカレームのスタイルを受け継いだ料理もありました。

 また、カレームは大変な研究家であったので、それまでのフランス料理に様々な改良を加えて進化させ、新しい料理を考案し、それまで雑多・混沌としていた中世以来のフランス料理を体系化し、近代フランス料理の礎を築きました。

 晩年には文筆業に精を出し、フランスの料理の基本ソースをソース・ベシャメル、ソース・エスパニョール、ソース・ヴルーテ、ソース・アルマンドの4つと定めて分類するなどし、多くの優れた料理書を残したことも、フランス料理界の発展に大きく寄与しました。

 それまでのフランス料理界で権威とされた料理書には、十四世紀にタイユバンが書いたとされている『ル・ヴィアンディエ』や、1651年にラ・ヴァレンヌが出版した『フランスの料理人』という料理書がありましたが、これらは中世ヨーロッパの前時代的な調理法の色が強く、いわゆる洗練された近代フランス料理は、カレームによって完成され、まとめられたと言われています。

 タレーランの下で名声を高めたカレームは、その後フランス皇帝、イギリス皇帝、ロシア皇帝といったヨーロッパ中の皇帝に招かれて料理を作り、そしてヨーロッパ一の大富豪ロスチャイルド家のコックとなってその腕を揮い、コックとして最大級の地位と称賛を受けました。

 このカレームの世界的な活躍によって、フランス料理は最高の料理と認知されるようになり、ヨーロッパの社交界において貴人や賓客を応接する際の正餐はフランス料理となり、スタンダードとなったのでした。 

※ソース・ベシャメル…いわゆるホワイトソースであるが、作り方は現在とはやや異なる。
※ソース・エスパニョール…焼いた肉類・野菜類・トマトを煮詰め、ルーでとろみをつけたソース。これを濃縮したものがソース・ドミグラス。
※ソース・ヴルーテ…肉や魚のフォン(出し汁)にルーを加えたソース。
※ソース・アルマンド…アンチョビと鶏の肝臓を煮て作ったソース。エスコフィエ以降は卵黄を使ったソースになっている。


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