西洋料理の歴史

6.近代フランス料理への移行


●ロシア式サービスとユルバン・デュボワ

 何世紀にもわたる宮廷料理人達によって練り上げられ、カレームによって一つの完成を見たフランス料理は、十九世紀以降のヨーロッパの正餐においてスタンダードになったわけですが、カレーム時代までのフランス料理は、基本的に豪勢に盛り付けられた大皿料理を、一度にテーブルに並べてまず目で楽しみ、食べる時に取り分けていくというスタイルが基本でした。

 一方、ロシアでは、そうしたフランスのスタイルとは違った料理の提供方法がされていました。
 それは、前菜から主菜にかけて、食べる順番に一皿ずつ提供されるというスタイルで、「ロシア式サービス」と呼ばれていました。

 これは今では当たり前のサービスの仕方ですが、当時の社交会では一般的ではありませんでした。

 しかし、極寒のロシアでは、料理を一度にテーブルに並べるとすぐに冷めてしまうので、料理を温かいうちに食べられる工夫として、一皿ずつ提供する方法が用いられていたのでした。

 ただ、この方法では、どうしてもテーブル上が貧弱に見えてしまうので、他国では「もてなし料理としては相応しくない」と見なされ、ヨーロッパの社交会では評価されていませんでした。

 カレームもロシア皇帝の仕事をしていたことがあったので、ロシア式サービスのことは知っていましたが、やはり見栄えが悪いと評し、この方式は用いませんでした。

 しかし、大皿に手間暇かけて盛りこんで、料理をまとめて並べたのでは、ロシアでなくても料理が冷めてしまいますし、食べる時も、全てを同時に食べられるわけではないので、後半に食べる料理は間違いなく料理の状態は変わってしまっています。

 しかし、当時の感性では、「料理で歓待する」という目的においては、何より「見栄え」や「豪華さ」に重きが置かれていたのでした。

 そこに、このロシア式サービスに注目したのが、ユルバン・デュボワ(1818年〜1901年)というコックでした。
 デュボワはカレームの弟子のひとりでしたが、味における優位点から、その著書の中でロシア式サービスを紹介したのです。

 この頃から、フランス料理界においても、見た目ばかりを重視するのではなく、美味しく食べるために一皿ずつ提供しようということが少しずつ意識されはじめます。

 これにはデュボワの影響もあったでしょうけれど、封建時代が終わり、食が貴族たちの権威を誇示するためのものや、接待のための道具ではなく、一般市民が楽しむためのものになっていったことも背景として大きかったでしょう。

●フランス料理と日本

 鎖国によって海外との折衝を避けていた日本も、十九世紀になり、黒船の来航と開国によって、西洋文化が本格的に流入します。

 そして1859年(安政五年)、箱館(函館の旧名)・横浜・神戸が開港されて外国人居留地が設けられ、本格的な海外との交流がはじまります。
 そして1868年からはじまる明治政府と皇室は、西洋諸国と対等に付き合うために公式行事の正餐をフランス料理と定め、西洋文化を急速に吸収しようとしました。

 この時、日本に流入した料理は、時代的にカレームやデュボワの流れを汲むフランス料理でした。

 もちろん、レベルとしては全てが一流の技術だったわけではなく、公使館付きの一流料理人から、本国で職にあぶれて世界を流浪しているような三流の職人など、その中身はピンからキリまであり、全てが純粋なフランス料理だったわけではなく、イギリスやオランダなど雑多な国の西洋料理が紛れ込んでいたのが実態でした。

 それでも、横浜や神戸の居留地に次々と建てられた外国人ホテルでは外人コックが外国人のために腕を揮い、各国大使の公使館には召抱えの外人コックがいて、何ヶ月もの航海を経て日本にやってくる外国船にも外人コックがいて、そうしたコックたちの作る料理は、レベルは一様でなく、当時の日本の食材環境から使える食材に限りがあったとはいえ、紛れもなく本物の西洋料理でした。

 そして、それらの外人ホテルや外国人公使館で下働きをしていた日本人が、やがてひとり立ちしてホテルのシェフや西洋料理店のシェフとなり、日本の西洋料理の黎明期を担っていきました。 

 


←Back       Next→

 →TOPへ